「上手く抜け出せてよかったね」
「うん、そうだね」
ボートに乗って三十分、無事に本島のブライダルストリートまでやってきた私達は、ビスケさんオススメというドレスショップを目指していた。
実はこのお店、昨日、宝石店を抜けだしたイルミとビスケさんが、あらかじめ下見しておいてくれたそうなんだ。
私に似合いそうなドレスがあったらしく、イルミの足取りは軽い。
「でも、ミルキくんを置いてきちゃってよかったの?」
「あれだけ痩せれば上出来だよ。念の修行もして代謝も上がってるからリバウンドもしにくいだろうし――あったよ海月、あの店だ」
ぴ、と指差された先に、白い外壁の洋服店が一見。
通りに面して大きく取られたショーウィンドウには、繊細な絹糸で編みあげられた、総レースのウエディングドレスが凛として立っている。
「綺麗だろ」
「うん、とっても! ……って、まさかドレスって、あれのこと?」
「うん。気に入った?」
くりっと首を傾げるイルミは本気である。
「すごく綺麗だけど、ウエディングドレスじゃない……!」
「わかってるよ。パーティー用のドレスは別にある。ただ、折角だからあのドレスも着てみて欲しいんだよね」
ダメ、と見つめられれば、
「うん……」
と、頷くしかないわけで……。
***
「綺麗だよ、海月……」
明るい光の差し込む部屋の中、大きな一枚鏡の中に、ウエディングドレス姿の私がいた。
イルミが、そっと後ろから抱きしめてくれる。
今朝見た夢と同じように……違うのは、タキシードではなく彼が私服のままだということ。
でも、やっぱりどうしても、夢のことを思い出してしまう自分がいる。
「海月?」
ぐっと抱き込まれると、薄いレース越しに高鳴る鼓動が伝わって、私のものと重なった。
「本当に、綺麗だよ?」
「あ、ありがとう、イルミ……んうっ!」
綺麗、とキスの合間に、彼は囁く。
「今から式が待ち遠しいよ。早く、海月が俺のものになればいいのに」
「イルミ……」
何気ないその言葉に、心臓が突き上げられる。
僅かに曇った表情の変化に、イルミはいつも以上に敏感だった。
「どうしたの?」
くりっと首を傾げて、私の顎をもち、そっと上向かせる。
「海月、俺に隠してること、まだ話す気にならない?」
「……」
「ねえ、誰にだって秘密はあるだろうけど、俺達、結婚して夫婦になるんだよ?抱え込んでるのが辛いことなら、ちゃんと俺にも分けて」
「イルミ……」
お願い、と、眦に落とされる口づけの優しさに、こらえ切れなくなる。
昨日あったこと、見た夢のこと、なによりも、今この胸にある不安を残らず吐き出してしまいたいと思った。
その衝動が、わななく唇を開かせる。
けれど――
「……でも、ない」
「海月」
「なんでもない……本当に、なんでもないから」
見上げたイルミの顔に、キキョウさんが重なって見えた。
貴方のお母さんに命を狙われてるかもしれない、なんて。
言えるわけがない。
「――そう。それが、海月の答えなんだね」
「……ごめん」
「謝らなくていい」
遮るように、彼は言い捨てた。
「ポー。悪いけど、今日はもう顔を見たくない。夜になったら島に戻るから、一人にさせてくれる」
「イルミ……!」
「怒ってるんじゃないよ。ただ、これ以上一緒にいたら力づくでも聞き出したくなるからね。気持ちが落ち着くまで、俺から離れていて欲しいんだ」
「……」
「いいね」
「……うん、わかった」
私が小さく頷くのを見届けて、イルミはいつもと変わらない足取りで部屋を立ち去っていく。
パタン、とドアが閉まった途端、私は、その場に泣き崩れた。
酷いことを言われたわけではない。
乱暴な真似をされたわけでもない。
ただ、一言。
“ポー”と呼ばれただけだ。
でも、その瞬間、イルミはもう私を本当の名前で呼んでくれることは、二度とないのではないか。
そんな予感がしたのだった。
***
ラブハリケーンアイランド本島、ビスケのエステサロン【PINKY BLESS】にて。
修行開始予定時刻を一時間近くオーバーした昼下がり、ゲッソリとやつれた様子で現れたミルキに、ビスケは目を丸くした。
のこのこやって来たら怒鳴りつけてぶん殴って蹴り飛ばしてやるだわさ、と練りに練っていたオーラがしゅぽっと霧散する。
「ちょ、ちょっと、大丈夫? 一体、何があったんだわさ!?」
「ビスケ……遅れて悪ぃ……うちの家族が島に押しかけてきやがってよコフー……朝っぱらから酷い目に……遭っ……たぜ……グフア!」
「ミルキ! ああもう、しっかりするだわさ、いでよクッキーちゃん! 《桃色吐息(ピアノマッサージ)》!」
きらめくオーラの光の中から現れた美女は念のエステティシャン、クッキーちゃんである。
彼女のたおやかな腕が、ミルキの少々だが会った時よりは微妙に引き締まったボディラインを丁寧にさすり、解きほぐしていく。
彼女にかかれば、肉体的な疲労とともに精神的な疲労、いわゆるストレスも瞬時に取り除くことができるのだ。
床に倒れたミルキの顔から苦痛の色が消え、むっくりと起き上がるのに五分もかからなかった。
「あー……スッキリした。助かったぜ、ビスケ」
「どういたしまして。それにしても、常夏のリゾート地に暗殺一家ゾルディックが勢揃いとは、物騒なことになってきたわねー」
そろそろ店じまいかしら、とビスケが思案げに腕を組んだときだ。
「――っ、何奴!」
玄関の向こうから、すさまじいオーラを感じた。
寒い……全身が粟立って、震えがとまらないほどの――一体、このオーラの主は誰だというのか。
「……っ、ま、まさか、このオーラは……! ビスケ、あとは頼んだぜコフー!!」
「ああ! ちょっとミルキ、逃げるんじゃないわさ――って、もういないし。もう、しょうがないわね!」
ビスケが臨戦態勢を整えた瞬間、重いはずのコアの木の扉が、蹴破られるかのごとく乱暴に開け放たれた。
「こんにちは」
「イルミ!? なんだ、あんただったの……どうりでミルキが逃げ出すはずだわ。で? どうしたの。ポーがいないところを見ると、彼女となにかあったのね?」
「話したくない。ロイヤルヘアトリートメントコース、さっさとお願い」
全身から禍々しいほどに吹き出すオーラとは裏腹に、イルミの態度はいたって静かなものである。
ヘアエステなんかしなくても、充分なほどにツヤもコシもあるぬばたまの黒髪をなびかせつつ、客間を通りすぎて奥のサロンへと勝手に進んでいく。
しかし、その目は何も映してはいなかった。
「取り付く島も無いって感じね。はあ、全く……」
マリッジブルーも大変ね、と嘆息一つ。
外見よりもずっとアダルトなビスケである。
とりあえず、心を固く閉ざしたイルミから話を聞き出すためにも、言われたとおりに施術を施してやることにした。
――三十分後。
「というわけなんだよ。酷いよね。酷いと思わない?」
「えらくあっさり口を開いたわねー。もうちょっと手強いかと思ってたわ、アンタは」
施術台に寝転がり、クッキーちゃんのゴッドハンドに頭皮をもみもみされながら、だって、とイルミ。
「気持ちよすぎてつい。美容院効果ってやつだよ。それにしてもこの能力、いいねー。ビスケ、俺の専属にならない? 料金は弾むよ」
「お断りだわさ! 料金以上にこき使われそうなのが目に見えてるわよ。そんなことより、ポーのことよ。あの子は見た目以上に頑固なところがありそうだから、本人の気持ちが傾くまで待ったほうがいいと思うわ。もちろん、力になりたいってアンタの気持ちは間違ってないし、正しいし、素直に受け取らないポーにも否はある。でもね、そのことはポーだってきっとわかってるはずなのよ。それでも今は話せないっていうんなら、待つしかないだわさ。はい、話も施術もおわり!」
「……わかってるよ」
むくり、と起き上がって、イルミ。
「分かってるけど、嫌だ」
「まけじと頑固ね」
いつのまにやらクッキーちゃんは消えており、広いエステルームにはイルミとビスケのふたりきりだ。
開け放たれた大きな窓から南風が吹き込んで、根本から毛先まで、栄養分とオーラをたっぷりに注ぎ込まれた黒髪が、まるで生き物のようになめらかに揺れた。
「あんたのその性格はいかがなものだけど、その髪だけは羨ましいわ」
「この髪も目も、俺は母さん似なんだ。特に、髪の色は重要でね。俺たちゾルディックは、外見の特徴が念の特徴に顕著に現れるから。そして、長男に求められていた特徴を、俺は何一つ持ち得てはいなかった」
男である以外はね。
淡々とした口調で語るイルミは、ビスケを見てはいない。
開け放たれた窓の側に、白い貝殻で作られたモビールがチリチリと鳴る。
薄く削られた乳白色の貝片は、くるくると回りながら、ときに日をうけて虹色に光った。
魚や、カメや、花を象ったものの中に、一匹だけ小さなクラゲが隠れている。
「ポーはなにを悩んでいるんだろう。あんなに泣いて悩むほどのことなのに、俺に話せないんだから、俺に関することだと思うんだけど。もしかして、ポーは俺と結婚なんかしたくないと思ってるのかもね」
「イルミ……それは考え過ぎだわさ」
これは少しそっとしておくべきなのかもしれない。
ビスケがそう判断して、部屋を去りかけたそのとき。廊下の向こうからバタバタと、騒がしい足音が聞こえてきた。
部屋の前を過ぎて、そのまま玄関の方へ。
そのあとは、しん、と静まり返る。
「ミルキね。あの子、昨日はいきなりチーを連れてきて、こいつの念も見てやってくれって言ってきたり、夜はパソコンを持ち込んで、チーとふたりで熱心に調べものしてたみたいだけど。なにがあったのかしらね」
「え……チーを修行?どうしてまた」
「あの子の念、危なっかしい上に不安定でしょう?本人もそれを自覚してたんだけど、なんとか制御できるように出来ないかって、頼み込まれたの。うまく出来るかは賭けだったけど、本人の意志が固い分、成果は上々だわ。真面目に続ければ暴発も防げるようになるんじゃないかしら」
「じゃなくて、なんでそのことにミルキが干渉してるわけ」
「そんなの知らないわよ。本人にお聞きなさいな」
「……」
むっつりと黙りこんでしまったイルミをよそに、ビスケは今度こそ部屋を出ていこうとして――あーっと大きな声を上げた。
「どうしたの」
「アンタ!まさか、ポーを一人で町に残してきたんじゃないでしょうね!まずいわさ、島長の衛兵達に見つかったら、即牢屋行きよ!?」
「……忘れてた」
***
「シングルだ――っ!!」
「出あえ、出あえ――っ!!」
「いやああああああああああああああああああああああ――っ!!」
イルミを怒らせ、お店に置いてきぼりにされた後。
泣きながら外に出て、三秒も経たずに彼らはやって来た。
頭にはハートマーク。
胸元にもハートマーク、おまけに全身ピンク色の鎧に身を包んだ衛兵たち……!
つ、ついさっきまでイルミと一緒に町を歩いていた時は、1人足りとも見かけなかったのに、一体どこに潜んでいたというのだろう。
ブオオオー、ブオオオー、と吹き鳴らされる法螺貝の音と主に、殺気立ったピンクの集団がありとあらゆる路地から飛び出してくる!!
なんとか捕まらずに逃げてはいるけど……ああもう、すれ違うカップルの視線が痛いよう!!
イルミ……どこにいるんだろう。
「私が追い掛け回されてるんだから、イルミももしかしたら――あっ! ていうか、この街にも安全な場所があるじゃないの」
すなわち、それは我らが心源流師範ビスケさんのお店!
津波のようなピンク色の集団に追われながら、ブティック街を真っ直ぐに走りきった私は、路地を右に逸れ、彼女の店にあるメインストリートを目指した。
他の通りと比べて、この道はちょっと薄暗い。左右を高い建物に挟まれているせいで日が遮られ、そのためか、何やらアヤシイ看板を掲げたお店や、バーや、いわゆるそっち系のホテルが並んでいる。
「ううっ! 変な路に入っちゃったよう。こんな恥ずかしいところ、早く抜けなきゃ……あっ!!」
イルミだ!!
距離は10メートル先だけど、あのモデル体型、あの黒髪、そしてなによりあのオーラ!!
間違いない!
よーし、このまま真っ直ぐ走って合流すれば、これ以上逃げる必要も――と、そんな考えが浮かんだときだ。
【島長就任記念! ドキドキ☆ワクワク!ラブラブエッチなSMプレイセット全室完備!!】
の、看板が、彼のいる場所のすぐ隣にあることに気が付いた。
《嘘つきな隠れ蓑(ミミックギミック)》発動!!
「ダメダメダメ!! ダメだよ、今のイルミとこんなところで会っちゃったら最後、どこに連れ込まれてナニされるかわかったもんじゃない!!」
しかも先日、某ラブホテルに言った時も、彼はSM付き花魁コスプレセットにご執心であらせられたではないか。
ここで見つかるわけにはいかない!!
幸いにも、《嘘つきな隠れ蓑》を発動させたことで、私を追っていた衛兵たちの足が止まった。あ、そうか。最初からこれを使ってたらよかったんだ。
各々、首を傾げながら立ち去っていく。
よーし、それじゃあこのままイルミの後をつけて、この小路を抜けた辺りで声をかけてみようかな。
なんて、そんなことを考えていた時だ。
こちらに向かって歩いてきていたイルミの足が止まった。
そのまま、近くの路地を凝視している。
何事にも滅多に動じることのない彼なのに、一体、なにがそうさせるのか。
蛇に睨まれたカエルのように、動けずにいる。
そんなイルミの前に、ふわり、と銀色の影が躍り出る――美しい、青いドレスを纏った女性だった。
「シィラ……!」
陽の光を遮られた通りの中で、彼女の背に流れ落ちる豊かな髪は、白銀に輝いて見える。
イルミの狼狽した様子から、彼は彼女のことを知っているのだろうと思った。
互いに見つめ合ったまま、最初に口を開いたのはシィラだ。
なにを話しているのかはわからない、けれど、次に彼女が微笑んだ瞬間、二つの人影がゆっくりと重なった。
イルミの背中を、白く華奢な腕が掻き抱く。
「……!」
叫びそうになるのを必死にこらえた。
けしてこの場で見つかってはいけない、そんな直感に任せて、路地に身を隠す。
爆発する感情とは裏腹に、頭の中は冷静だった。《嘘つきな隠れ蓑》は念の泡の表面を周囲の景色に擬態させる便利な技だが、扱いが難しく持続力がない。
一旦解除して、絶によって気配を消すことに徹する。
プロの暗殺者二人を前に、どこまで通用するかは分からないけれど。
見つかるわけにはいかない。
こんな無様な姿を晒すわけにはいかない。
頬を伝う涙を拭いながら、私はそう言い聞かせた。