……イ。
「……イ、イルミ」
マズイ。
マズイマズイマズイマズイマズイ!!
逃ゲロ。
ダメだ。
怒ラレル。
ヤバイ。
ドウシヨウ!!!!
「イ、イイイイイイイルミ、ごめ……ごめん!!」
「……」
頭の中は危険信号だらけ。
全身の血液が抜け落ちてしまったかのように、寒くて寒くて仕方がない。
海風になぶられる黒髪をぞんざいにかき上げ、イルミは手近なテーブルに軽く腰掛ける格好でこちらを見ている。
その表情からは、全く感情が伺えない。
つまり、それだけ怒っているってこと……!!
どうしよう……。
どうしよう!!
「ごめん――っっ!!ほんっっとにごめん!!ごめんなさいイルミごめんごめんごめん!!」
「ポー。俺は、ここでなにしてるのかって聞いたんだけど」
「……バ、バーベキューです」
「港に着いたら連絡するって約束したんじゃなかったの」
「……はい、約束しました」
「それなのに、なんで連絡してくれなかったの」
「……ごめんなさい」
「なんで」
「……わ、忘れてました!!ごめん!!ほんっとにごめんなさい!!」
「……」
イルミの表情は変わらなかった。
喜怒哀楽のなにひとつ伺えない真っ黒な眼差しで、しばらくの間、じっと私を見つめていた。
やがて、くるりと背を向ける。
「馬鹿らしい。結局、ポーは俺がいなくても平気なんじゃないか」
「そっ、そんなことないよ!!平気なわけないじゃない!!」
「でも、忘れてたんだろ。俺のこと」
「う……っ」
「馬鹿みたいだよ。俺ばっかり心配して。あんまり遅いんで、何か事故にでも遭ってるんじゃないかとか、また変な事件に巻き込まれてやしないかって……いてもたってもいられなくて来たんだよ。なのに、ポーはその間中、笑いながらご飯べてたんだよね」
「ううう……!! イ、イルミ、ごめん……」
「駄目。今回ばかりは、俺、本気で傷ついたからね。ポー、俺、当分の間仕事入れるから。ポーが本気で俺に会いたくなるまで、会わない」
そんな!!
「待ってイルミ!!」
私が触手を伸ばすよりも早く、彼の身体は展望席の柵をひらりと乗り越え、二階下の地面へと着地した。
ダメだ、追いつけない……!!
でも、そのすぐ後を追うように、三つの影が頭上を過ぎった。
トモチカ、カラ、マサヒラ。
三人の教え子たち。
まだ、念も覚えていないはずなのに。
彼等の動きは、驚くほどにしなやかで俊敏だった。
彼等はイルミの動きを見越して、助走をつけて大きく跳躍した。
イルミはそのまま前へ走りだそうとしたけれど、直後に降り立った三人が、彼の周りを取り囲んだのだ。
足を止めざるをえなくなったイルミが、苛立たしそうに舌打ちするのが分かった。
「だ、駄目だよ。三人とも!敵う相手じゃないんだから……!!」
守りの泡で防御をし、慌てて飛び降りる私。
イルミは殺し屋さんだ。
仕事でない限り、誰も殺さない。誰も傷つけない。
けれど、今のイルミはいつもと違う。
傷ついて、失望して、苛ついてる。
あの子たちに八つ当たりしないとは限らない……。
「三人とも!大丈夫だから、その人には何も――」
しないで。
そう、言い終わるよりも前に、イルミを取り囲んだ三人の身体がぐらりと前に傾いて、ゆっくりと――まるで、スローモーションを見るかのように、地面に倒れた。
「……嘘」
頭の中が真っ白になった。
どうして。
嘘でしょう?
イルミはそんなことしないよね。
だって、イルミは殺し屋さんなのに。
人殺しじゃないのに。
仕事に関係のないこの子たちを手にかけたり、しないよね……?
「イ……ルミ……?」
「ポー」
蹲るように地に伏した三人を、イルミは感情の篭らない瞳で見つめ。
くりっ。
と、首を傾げた。
「俺、彼等には特に何にもしてないんだけど。どうなってるの?」
「へ……?」
ぽかん、と鳩が豆鉄砲食らったような顔をして固まる私。
そのとき、ぴったりと地面にはいつくば……もとい、三つ指をついて土下座をしていた教え子三名が、同時に頭を上げた。
「イルミさん!!お目にかかれて光栄です!!アタシたち三名は、先生の研究ゼミに所属している研究生兼研究助手です!ポー先生にはいつもお世話になっております!!」
「……それはどうも。で、わざわざこんな足止めをしてまで、俺になにか用でもあるの?」
「大有りです。お二人の状況認識に若干のズレと行き違いがあるようなので、補足および修正をさせて頂きます!まず、こちらを御覧ください!」
ど、どっから出したんだ、その超薄型パソコンは。
そんな突っ込みはどこ吹く風。慣れた手つきで画面を立ち上げ、「どうぞ」と片膝をついた姿勢でイルミに差し出すトモチカである。
イルミはちょっと警戒するように、目の前のオレンジ髪の女子大生を見つめていたけれど、ややあってパソコンを受け取った。
「……ポー」
「え、私?」
「うん。なにこれ」
ぱっと、こちらに向けられた画面を見て、
「ギャ―――――――――――――――――ッッ!!!???」
「何を隠そう、これはチャーターした調査用潜水艦内の先生のワークデスクです!!普段は全部隠してますけど、一度ここにこもり始めると、日に日にイルミさんの写真が増える増える一方!!アレですよねー、撮影した海洋生物の画像解析を、ミルキさんに依頼するときに、別料金で頼んでるんですよね!?」
「バカ――!!トモチカ!!こんなのいつ撮ったの―――!!?」
「いつでしたっけねー?確か、二日前ですよ。無線でイルミさんと通信した日の夜。あと2日で調査を終わらせるんだって、ご飯もろくに食べずに研究室に閉じこもってたのを、引きずりだした時があったでしょう?あのときです」
ケロッとした顔で暴露する。
パソコン画面の中にあるのは、彼女の言葉の通り、潜水艦内で使用していた私の仕事机だ。
そこに飾られた大小のデジタルフォトフレーム。それから、三台並べたパソコンのスクリーンセイバー。
そのいずれにも、入れ替わり立ちかわり、同じ人物の写真が映し出されている。
シチュエーションは様々で、居間のソファにただ腰掛けていたり、ティーカップに口をつけて紅茶を飲んでいる場面。
飛行船から降りてきた瞬間。
敷地内の森を歩いているところ。
何気ない食事風景。
格好良く鞭を構えているのは――朝の拷問訓練のときだろう。
「やめて――っ!!ダメ――ッッ!!こんなのイルミに見せたら、全部取り上げられちゃうじゃない!!」
「平気でしょー。常時水深1000メートルに待機してる潜水艦の中ですもん。でも、これで少しはお分かりになって頂けたでしょう?先生は、海にいるときも、ずっとイルミさんに会いたいと思ってましたよ?ねー、マサヒラ、カラ!」
「おう。寝言でいっつも名前呼んでたしな。俺、それで覚えたんだぜ、イルミさんの名前」
「嘘!?」
「先生が、3日に一回しかご実家に連絡を取らないのモ、そう決めておかないと毎日でも連絡しそうだからなんだヨネ」
「そうそう!かける前には決まって『イルミが家にいますように!イルミが家にいますように!!』って願掛けまでしてんだぜー」
「そそそそそそそそ……!!」
「それにほら、この間なんか捕まえた突然変異種の真っ黒なドククラゲに、“イルミ”って名前つけて飼おうとしてたじゃないですかー、個人的に」
「あのときは流石に末期だと思って、皆で先生を陸に上げようと説得したんだったヨネ」
「それでも先生は、『イルミが頑張って仕事してるのに、自分が弱音を吐くわけにはいかない』って、頑張ったんですよ?」
「まだまだあるぜー、黒髪ロングの女性研究員でフルタさんっているだろ?あの人の後ろを歩く度にイルミに似てる、イルミに似てる……けど髪の艶とコシと張りが足りない、なにより毛先が傷んでるって、そりゃあもううんざりするほど嘆いてさ。しまいには、力づくでトリートメントし始めて――」
「ああ!知ってる。だからフルタさんシャンプーハット被って逃げまわってたんだ」
「スト――――プッッ!!分かりました、分かったからもうやめて下さいお願いします――っ!!」
「えー。俺はもっと聞きたいんだけど」
「聞かなくていい!! もう……もう……恥ずかしくて死ぬ……!!」
なんで言っちゃうの――っ!! 地面に突っ伏し、“嘘つきな隠れ蓑”を発動させてナマコを再現。
恥ずかしさのあまりナマコになったままゴロゴロ転がって逃亡しようとする私を、引き止めたのはイルミだった。
「ポー、待って」
「離してイルミ!!あんなの見られたら私、もう一緒に暮らしてなんかいけないよ……!!このまま、海に還ります!!」
「どうして?俺、嬉しかったよ?」
ギュムギュム、寝袋の口を無理矢理こじ開けるように、ナマコの腸内に埋もれた私を引っ張りだそうとするイルミ。
「……なんで? 普通、うわあ、こいつ変態だって、軽蔑しない?」
「しない。変わってるとは思うけど、そんなの出会った時からそうだったじゃない。今更だよ」
「う……!」
そ、そんなはっきり言わないでよ……!!
まあ、否定はできないんだけど。
「だから、出てきて。俺もちょっと言い過ぎたから、仲直りしよう」
「う、うん……」
ね、と小首を傾げて見つめられれば、断れるはずがなくて……というか、いつの間にか私がなだめられる方に回ってるのが不思議な話。
深呼吸して念を解くと、その途端にイルミは私の身体をひょいとばかりに抱き上げた。
え。
これっておおおおおおおお……!!
お姫様抱っこ!!?
「ちょー!!イルミ!!?」
「暴れないで。落ちるでしょ?じゃあ、そういうことで。君たちの先生は、しばらくの間、俺が責任をもって預かるから」
肩越しに振り向いて、有無を言わせない口調で言い切るイルミに、
「ガッテンです!」
「しっかり休んでこいよー」
「何かあったら屋敷に連絡を入れるカラ、心配しないデ。先生」
いってらっしゃーい、と両手を上げて送り出す教え子たちである。
うおおおおおお止めてくれえええええ!!!
ここはベントラの港町……私が研究拠点にしている超地元なわけなんですよ。
そんな町中を、普通に歩いたって目立つイルミが、お姫様だっこなんかしながら直進した日にはもう、パレードも同然ですよ!!?
漁師のおっちゃん連中も。魚屋のおばちゃん達もみんな見てる!!
恥ずかしいいいいいいっっ!!!
「あ、ちょっと。ポー、“嘘つきな隠れ蓑”禁止だって」
「だって皆が見てるんだもん!!お願いだから下ろして――っ!!」
「ダメ」
涼しい横顔で、この一言。
こうなったらもうこっちの言うことなんて聞いてくれないんだからイルミは……。
潮風になびく黒髪にほっぺたをくすぐられながら、彼が乗ってきた飛行艇へたどり着くまでの間、ただただ真っ赤になっていた。
***
『行き先を設定して下さい』
「家」
ルルルル、と廻るプロペラ音。
これだけでちゃんと離陸してククルーマウンテンにまで戻っちゃうんだから凄い。
全自動高速飛行艇……イルミの私用艇に乗るのは、随分と久しぶりだ。
半月前に、天空闘技場へ行ったときや、その後に各地の観光スポットへ旅行をしたときにはとってもお世話になったのに。
「イルミ、今日は立ったままなの?」
無事離陸し、飛空艇がゆっくりと進路をなぞり始めた後も、イルミは舵の前に立ったままでいる。
前は、行き先を設定したら二人でラウンジのソファに座って、目的地につくまでの間、お茶を飲んだりテレビを見たりしてゆっくり過ごしていたのに。
……やっぱり、まだ起こってるんだろうか。
さっきの私の問に対しても、「うん」と返すだけで後には何の言葉も続かない。
目の前にあるはすのイルミの背中が、とても遠くに感じられて悲しかった。
イルミとの約束を忘れてさえいなければ、今頃はきっと、好きなだけ甘えられていたはずなのに。
「……」
ぽすん、と。
背中からイルミを抱きしめてみる。
放せと怒られるかも知れないと思ったが、意外にもイルミは何もいわなかった。
無視をしているわけではなく、前に回した手の平を、無言で握りしめてくれる。
ん、と、ふいに、イルミが何かに気づいて振り向いた。
「ポー。ポケットに入ってるの、何?」
「えっ?」
胸に手を当てると、右のポケットに硬い感触があった。
堅くて冷たい……ジンさんから貰った、ダブルハンター証。
項垂れたままで差し出すと、イルミは珍しく驚きを声に含ませた。
「二つ星!? なんでまたこんなもの」
「今日ね、ジンさんってハンターが渡しに来てくれたの。ゴンのお父さんでね、すごい人なんだ……イルミとの約束を忘れちゃったのは、ジンさんたちとご飯を食べて、話を聞いてたからなんだよね……」
「ふーん。でも、ポーはまだシングルハンターにもなってないだろ。なんでいきなりダブルに昇格なんてしちゃったんだろうね。仕組み的には不可能だよ?」
「うん……知ってる。大体、私の場合はちょっとしたズルもしてると思うんだよね」
というのも、ダブルハンターというのは本来、プロハンターの中でまず一ツ星を取得し、その後、教導した後輩ハンターが一ツ星を獲得したハンターに贈られる称号なのだ。
それなのに、いきなりダブルとはこれ何ぞ。
ジンさんが、さも面倒くさそうにネテロ会長からの伝言を要約して伝えてくれたけど、その内容はとてもじゃないけど、そうですかと納得できるものじゃなかったんだもの……。
「まずね、海洋研究分野においての貢献度を考えると、私は本当ならハンターなりたて半年の時点で、1つ星を取得出来てたんだって」
「まあ、候補には挙がってたそうだからね」
「うん。でも、その昇格があまりにも速すぎるって、協会の重鎮ハンターさん達から反対の声があったらしいの。だから、そのときにはネテロ会長も、じゃあもうちょっと様子を見るかって思ったみたいなんだけど――」
だがしかし。
そうこうしているうちに、ハッカー専門の賞金首ハンターからこちらに転職し、私の研究チームの一員となってくれたハンターさんの中で、今回、見事シングルハンターに昇格した人が出てしまったのだ。
その人は、大型の海洋生物を仕留めるための、技術開発分野の才能があると思ってスカウトしてきたんだけど……それも、一種の教導だと評価されたということで。
「シングルから始めても、どうせ短期間で昇格するだろうから一度で済ませたほうが楽だって。『ってか、オメーがいつ陸に上がってくるか分かんねーだろーが!わざわざ渡しに来る方の身にもなってみろ!!俺はもう二度とゴメンだぜ!!』ってさ、ジンさんったら若干キレ気味で言うんだもん。断るに断れないしさ……」
「別に、くれる物はもらっておけばいいと思うけど。無理に断らなくてもいいじゃない。邪魔になるものじゃないし」
「うん……」
「嬉しくないの?結構すごいことだと思うんだけど、それ」
「……だって、今回の喧嘩の元凶なんだもん。貰ったときは嬉しかったけどさ。ジンさんには悪いけど、こんなことになるなら、ダブルハンターの称号なんかいらなかったよ……」
「……仕方ないね、ポーは」
イルミの手が、私を背中から引き離す。
肩を抱かれ、正面から深く顔を覗きこまれた。
「夢中になるのはいいけど、俺のことは忘れないでよ」
「ごめ……なさ……い」
「泣いてもダメ。家に帰ったらお仕置きだよ」
でも、と、イルミの手が涙を拭い去っていく。
「今だけ許してあげる。飛空艇が家につくまでの間だけね……」
「イルミ……!」
抱きしめて、キスをして。
首筋に顔を埋めて、イルミの匂いをいっぱいに吸い込みたかった。
冷たい髪に触れたかった。
その胸に響く、力強い鼓動を聞きたかった。
イルミ。
イルミ……。
「会いたかったよ……イルミ……ッ」
「うん。――俺もだよ」
港から上昇した飛空艇が、山岳を越えて、森を過ぎ、ゾルディック家邸内の自宅飛行場に降り立つまでの、その束の間。
イルミは、ずっと私を抱きしめ続けてくれていた。