「……私の爪が通じないなんて、流石ね」
厚みのある唇から、チロ、と赤い舌先が覗く。
抱擁と見せかけて、背中に突き立てられた十指の凶爪を、イルミは触れられた場所へオーラを集中させることで完璧に防いでいた。
隙のない動きで距離を取り、同業者は悪びれもなくにっこりと微笑んだ。
「五年ぶりね。惚れなおしたわ」
「シィラ・シーカリウス。どうして君がここにいるの」
「貴方に会いたかったからよ? そんなに怖い顔をしないで頂戴」
「要件は?」
「……ここでは話せないわ」
行きましょう、と彼女が踵を返した先は、見るからにこういった裏路地にしか軒を構えられそうにないホテルである。
「……」
「心配しなくても、襲ったりしないわよ?」
こっちの意味ではね、と意味深に付け加え、シィラは銀の髪を雲のようになびかせて、入り口の闇へと消えていく。
イルミはため息を一つ落とし、後を追った。
行き着いた先は一階の角部屋だった。
シィラは鍵を使用すること無くドアを開け、イルミを中に招き入れる。
こういったホテルによくある手合だが、鏡の多い部屋だ。
そのせいで、大して広くもない部屋に奇妙な奥行きが生まれ、遠近感が掴みにくい。
鏡の反射によって死角も減る。
見上げると、天井も全て鏡張りだった。
どこまでも暗殺には不向きな間取りだが、オブジェのつもりなのか、部屋の一角に噴水があった。
湧水口から滴る水の音が、初動の気配を消し去ってくれる――しかし、それは相手にとってもおなじ事だ。
シィラは軽い足取りでテーブルを通り過ぎ、奥にあるベッドに腰掛けた。
薔薇色のシーツに、膝の上まではだけられた彼女の脚が、くっきりと浮かび上がる。
「座って」
「……」
窓際に置かれたソファへ、イルミは視線を投げた。
受付もなにもせずにここまで来れたということは、彼女が予め手配しておいたのだろう。
一方、こちらは何の策もなく、自ら蛇の巣の中に飛び込んだ。
暗殺者としては落第点だ。
だが――彼女がここにいる以上、どうしても、確かめておかなくてはならないことがある。
イルミはソファを通りすぎ、ベッドへと足を進めた。
「ずいぶんと、用意周到だね。シィラ」
警戒されるかとも思ったが、近づくごとに彼女の笑みは深まった。
手を伸ばし、剥き出しの肩に触れる。
「当然だわ……可愛い許婚者のためだもの」
「許婚者?」
首筋を撫で、左の耳朶に埋め込まれた青い石を指先でからかえば、彼女は品のいい猫のような仕草で、しなやかに身を捩らせた。
「五年も俺のことを放っておいたくせに。そういうこと言うと、期待しちゃうよ? 俺、まだまだガキだからね……」
「ふふっ、拗ねてるの?」
「まぁね」
耳の後ろから、滑らかな髪の間へ指を差し込めば、それが合図になる。
唇を合わせながら、イルミは目の前にある女の身体を寝台へ縫い止めた。
シィラはイルミよりも三つ年上の暗殺者だ。
南東にその名を馳せる暗殺名家、シーカリウス家の末娘である彼女は、母親キキョウが男子を出産した瞬間に、ゾルディック家の許婚者となることが運命づけられた。
無論、大半は彼女の両親の強い希望によるもので、ゾルディックは――特に、シルバは相手にもしていなかった。
しかし、イルミが三歳の誕生日を迎えた朝、五歳のシィラが、たった一人でゾルディック家へやって来たのだ。
その小さな両手で、試しの門を押し開いて。
当時のことは、イルミ自身は全く覚えていない。
だが、後々に、キキョウから嫌になるほど話を聞かされ、なにがあったのかは知っている。シーカリウス家のご息女が、一の扉を開いた――報告を受けて出迎えたシルバとキキョウに、シィラは言ったそうだ。
自分の名を、そして、将来の夫の顔を拝みに来てやったのだと。
「随分、伸びたわね」
シィラの手のひらが、イルミの髪を弄ぶ。
自分の肩や、胸元へ落ちた房をすくい上げては、指の合間からサラサラと零していく。
「綺麗な髪。闇よりもなお深い漆黒の髪と、その瞳。美しいと思うわ。黒は、私の家が最も好む色だもの……でも、貴方は昔から黒が嫌いだったわよね」
「……」
「貴方は自分の容姿を嫌い、私は自分の容姿を憎んだ。貴方は私の、我が家では禁忌とされるこの白銀の髪を、いつも欲しがってた」
「つくづく、ないものねだりだよね。俺達」
そうね、と青い双眸が微笑む。
シィラの手のひらが、イルミの頬を包み込んだ。
「でも、だからこそ私達は許婚者なのよ」
「五年前に俺を捨てて、恋人と駆け落ちしたくせに?」
「あれは貴方が悪いの。それに、いつかは戻ってくると分かっていたんでしょう? だからまた、こうやって髪を伸ばしてくれたんだわ……やっぱりこの方がずっといい。頭の悪いあの子達にはわからないでしょうけどね」
「……」
「素敵よ、イルミ。明日のパーティーが楽しみね」
その口ぶりに、やはり、と思う。
必要な情報はほぼ揃った。
そこで、ある確信を持って彼は尋ねた。
「……明日のパーティーの主賓は、君と俺なんだ?」
「当然よ。私の他に、誰が貴方の隣に並べるというの」
「それって、俺の家の決定? それとも君の方」
「あえて言うなら、両方かしら。キキョウ様は明日の会で、誰が真にゾルディックの嫁に相応しいか示せと仰られた。なら、生き残るのは私」
「ふーん、嫁候補同士の殺し合いなんだ。楽しそうだね」
「ええ、きっと最高のパーティーになるわ」
「シィラが出るなら俺も行くけど、でも、ちょっと嫌だな」
「あら、どうして?」
「頭の悪いあの子達って、俺が髪を切ったときに群がってきた女共だろ? うっとうしいから、会いたくない。マフィアや暗殺一家の令嬢と言っても、名前も知らないような家ばっかりだし」
「確かにね。それは私からも、キキョウ様に言ったのよ。彼女たちは招待するだけ無駄だから、会では貴方の目の前で、あの玩具を壊すだけで充分なんじゃないのかって」
「……玩具?」
イルミの瞳が、それとわからないほどに僅かに揺れる。
「そう、玩具。退屈を紛らわすための遊び相手」
「……母さんはなんて」
「候補者100人、全員試さないと意味がないと言われたわ。あと、事前に殺しちゃうのも無し。だから、貴方の大事な玩具にも、会いには行ったけど手は出さなかった」
「ポーに会ったんだ。ふーん。気づかなかった、流石だね。いつ会いに行ったの?」
「つい昨日よ。可愛い子だった。純粋そうで、弱そうで、すぐに殺せそう。庇護欲と嗜虐心の両方が刺激されてゾクゾクする。そこが気に入ったの?」
イルミはゆっくりと目を閉じた。
再び瞼を開き、彼女に囁く。
「まぁね……でも、シィラが手を出さなくても、俺はポーをゾルディック家の嫁にするつもりは元からないんだよね。ポーは殺し屋には向いていない。殺し屋になれないものは、ゾルディックの嫁になることは不可能だ」
「それ、あの子に言ったの?」
楽しそうに笑うシィラに、イルミは目を細める。
「まだ。パーティーのときに、皆の前で言おうと思って」
「悪い子。貴方のそういう意地悪なところ、大好きよ」
紅い唇が笑みを深める。
髪を引かれ、イルミはもう一度その花弁へ自らのものを重ねた――