「じゃあ、そろそろ上へあがろうか」
「うん。イルミ、ありがとう!イルミの鍼治療ってよく効くんだねー!」
「筋肉疲労を回復させるツボに数カ所刺しただけだけど。歩けるくらいにはなるよ。でも、無理はしないでよね」
「うん!」
イルミに手を引かれ、来るときに降りてきた長い階段を登っていく。
終点は重い石の隠し扉で、イルミはそれをゴゴゴ、と片腕一本で押し上げた。
「どうぞ」
「ど、どうも……って、うわあ!?シルバさん!!」
そういえば、あの部屋の上は拷問部屋もとい、ゾルディックの皆さんの訓練室なんだった。
二人一組で並んで鞭打ちしてるってことは、今日は月曜日。
時刻は大体、朝の四時半だ。(……私が昨日ここに帰ってきたのが一時過ぎ。ということは、かれこれ15時間近くイルミに責め立てられていた計算に――やめよう、深く考えるのは)
シュパーン、とものっすごい速度で鞭を振るう大きく逞しいお背中は――よもや、見間違いようもない。
腰まで伸びたふわふわの銀髪。
半月ぶりにお会いするシルバさんは、例のイルミの秘密の拷問部屋から出てきた私たちを青い双眸で一瞥し、ふむ、と感慨深げに頷いた。
「生きていたか」
「生きてますよ!!なんですかそのちょっとがっかりしたような物言いは!!」
「がっかりはしていない。むしろ、お前が帰って来てくれて良かったと思ったくらいだ」
「えっ!」
目の前にはにっこり微笑むシルバさん。
その大きな胸に飛び込む勇気は私にはなかった。
ジンさんの言葉を思い出せ私!!
「うわあ、裏のある笑顔。絶対なにかあるよねー、イルミ!」
「うん。間違いなくね。ポー、厄介なこと頼まれないうちに行こうか。せっかくの休みなんだから、どこか街にでも遊びに行こう」
「あっ! こら待て、お前達!」
すかさず飛んでくる鞭筋を、華麗に避けるイルミと私。
でも、ドアを抜け出す寸前。
何気なく通り過ぎた丸いものに、私の目は釘づけになった。
「ミルキくん!!?どーしたのその雪だるまみたいな体型は!!ちょっと待って、何で!?半月前まで少しは見られる体つきになってたのに!!」
「……余計なお世話だっつーの、コフー痛ええええっ!!」
「何、上から目線で物を言ってるの、ミル。俺とポーがちょっと目を離した隙にブクブクブクブク太ってさ。部屋にいたときは椅子にハマってたから気が付かなかったけど、酷いね、コレは。見るに耐えかねるよ」
「あ、分かった!シルバさん、私が帰って来て助かったっていうのは――」
「そうだ。また、前のように食事面の管理をしてやってくれ。俺がいくら絞り上げても痩せやしねぇ」
「シルバさんに痛めつけられて痩せないなんて……どんな脂肪つけてるのミルキくん。今年の夏は暑かったから、コーラにジュースにアイスクリームって調子に乗って食べまくってたんでしょう!目に浮かぶよ……まあ、まずは健康的な朝ごはんからね」
「げっ、またあの変なバクテリア入りの飯食わせんのかよ!?」
げーっと実に嫌そうな顔で文句を言いかけたミルキくんが、ピキッと固まった。
イルミだ。
横にいる私でも鳥肌の立ちそうな暗殺者オーラを、容赦なくウォンウォン発している。
「ミル……嫌ならいいよ。食べなくて。ていうか、いっそのこと何も食べさせなければ痩せるんじゃないの。うん、そうしなよ。はい、決定」
「どうもすみませんでした……!!ポー姉、飯抜きだけは勘弁して下さいコフー!!」
「イルミ、抑えて。そんなことして痩せても、食べたらまた元に戻っちゃうよ。うーん、でもそれは、食事面を管理しても同じなんだよねー。何か、プラスアルファのダイエット法を考えないと、これじゃいつまでたってもイタチごっこかも」
「どんな手を使ってもいい。かかる経費はうちで出す。あと4日以内に、こいつの贅肉をどうにかスーツの中に収められるようにしてやってくれ」
「はい、なんとかやってみます――って、え?スーツって、何でまた。何か式典でもあるんですか?」
「ああ。なんだ、キキョウから聞いていないのか?」
「なにも……イルミ、知ってる?」
「ううん。でもなんか、増々ろくでもないことにつき合わされそうな気がしてきた。ポー、やっぱりダメだ。父さんの頼みは適当に断って、早く俺と街へ行こう」
「堂々と聞こえるように言うな。イルミ、その催しにはお前も出席することになっている。これは命令だ」
「……見返りは高くつくからね。ポーは今の時期、かなり仕事が忙しいんだ。それを昨日、やっとの思いで連れ戻してきたんだよ。俺とポーの休みが重なるなんてこと、かなりの無理をしないと実現できないんだから。それを分かっての上だよね、父さん」
うおおおうっ!!
イ、イルミ怖ああい!!
もうなんか、目が死んだ魚みたいなことになってるんですけど!?
「ダメー!イルミ、そんな顔しないで!普段の可愛いぱっちり猫目に戻って早く!」
「だって。ポーは嫌じゃないの?せっかくの休みなのに、ミルキのダイエットにつき合わされるだなんて――」
眉間に皺を刻むイルミに、私はこっそり目配せをした。
いいこと考えた!
そんな思いは、彼にもしっかり伝わったらしい。
はあ、と深いため息をひとつ。
イルミはシルバさんに向き直った。
「分かったよ。ポーがいいって言うなら、俺はもう何も言わない」
「それでいい。ミルキ、しっかりしごかれてしっかり痩せてこい」
最後に、厳しい視線で真っ青になったミルキくんを一突き。
鞭を棚に戻し、シルバさんは拷問部屋を後にした。
気がつけば、この部屋にいるのは私たちだけ。
念の為に円をして、誰もいないことを確認してから、私はゾルディックの息子たち二人に向き直った。
「さて、諸君」
「うん。で、何を思いついたわけ」
「またなんか、とんでもないことのような気がするぜコフー……」
「そーんなことはございません!でも、確かにとんでもないことはできるよ!なんったってあのシルバさんの資金援助っていう後ろ盾がついたんだからねっ!!」
「資金援助?」
何の話、と首を傾げるイルミとミルキ。
顔を見合わせ、二人同時にあっと叫んだ。
「まさか」
「そう!そのまさかです!!シルバさんが言ったでしょ?“どんなやり方でもいいから痩せさせろ。かかる経費はうちで出す”って。せっかくお金出してくれるんだから、なにも、家でダイエットなんかする必要はないもん。やりようによっては、ダイエットも、イルミと一緒に夏のバカンスを楽しむことも、両方できるじゃない!!」
「しかも、それにかかる経費は全部親父持ちで、か。最高だね」
「うお~、すげえええ!!ポー姉、すっとぼけた顔してなんつーこと思いついてんだよコフー!!!」
「えへへー。でも、そのかわり頑張って痩せなきゃダメだよ、ミルキくん!」
「任せろ、コフー!!」
「よーし!そうと決まればシルバさん名義でさっそく空母を購入して――」
「ちょっと待って。それは流石に親父でも無理だからね。クルーザーならともかく、個人が所有できるものじゃない。大体、そんなもの買って何に使うの」
「え?だって、便利じゃない。軍事用じゃなくって、研究所がわりにしたいんだけど。空母だったら港にもなるし、飛行船だって離発着できるでしょ?それが海の上に浮かんでて、しかも好きな場所に移動だって出来るんだよ!!もう、海洋研究者の夢の結晶だよね!!」
「……その発想はなかったぜ、コフ―。でも無理無理、ニミッツ級原子力空母で、三兆ジェニー以上するって。親父の総資産でもギリギリじゃねー?」
「ちぇー。じゃあいいや。普通に飛行船で行こうっと。イルミ、タダで飛行船借りてもいーい?」
「いいよ。じゃないと、また馬鹿なもの欲しがりそうだからね。でも、どこへ行くつもり?」
人差し指をほっぺに当て、くりんと不思議そうな顔を傾かせるイルミに、私はにんまり笑って言った。
「決まってるじゃない。バカンスといえば、南の島!!」
***
マーレ諸島。
そこは、私の仕事場であるバルトワナ海溝と、研究拠点であるベントラ港のほぼ同距離に位置する群島地帯である。
別称を“女神の首飾り”とも呼ばれ、豊かな海浜と大洋、自然の織りなす美しい景観に恵まれている。
気候は一年を通して温暖な熱帯性気候。
また、公共の海浜を数多く有し、大洋に取り囲まれていることと、および内陸には活火山があることで、多くの観光客、サーファー、生物学者、火山学者などに好まれている――まさに“北の楽園”なのだ。
遅ればせながらしっかり訓練を終え、しっかり朝ごはんを食べた私とイルミ、そして、今回の騒動の中心人物ミルキは、旅行の仕度をさっさと整え、三人揃ってイルミの私用船に乗り込んだ。
文句言われないうちに出発進行!
自動操行に切り替えて、私たちはそれぞれ好みの飲み物を手に、海図を囲んでラウンジのソファに腰掛けた。
罫線と緯線の格子模様の上に、青いマジックと赤いマジックでキュキューっと曲がりくねった線と渦巻き模様を書き加える。
「いいですかー、二人とも! 私たちの住むパドキア共和国の有する北の大海、パドキア海は、北方からの大きな寒流と、南から流れ込む筋状の暖流とが、たえず複雑に対流している海なのです」
「へー」
「な、なんでいきなり授業みたいなことになってんだよコフー……」
「ポーはこれが本職なんだから仕方ないじゃない。大体、今から行く場所を詳しく説明しろって言ったのはお前だろ、ミル。責任持って最後まで聞きなよ」
「へいへいコフー……」
「二人とも、私語してると大事なことを聞き逃しちゃうよ? でね、今から行こうとしているこのマーレ諸島。高緯度地域にありながら、年間平均気温が20度と温暖なのは、この二つの温度差のある海流のうち、冷たい寒流がバルトワナ海溝の海底深くまで沈みこんでしまうからなの。水も、空気と一緒で冷たいと重くなって沈んじゃうし、逆に、暖かい海流は表層を流れるんだよ。だから、この島一帯は、まるで赤道の近くみたいに温かいの」
「それ、本当か?海水温だけで、島全体の気候にそれだけの影響が出るのかよコフー」
ズビズビ、子供にも飲みやすく改良した美と健康の海洋性青汁コラーゲンドリンク『つやぷる☆ワカメコンブくん』試作品十二号のサンプルを飲みながら、ミルキがジロリと細い目を向ける。
「うん。分かりやすい例えで言うと、床暖房! 床下を流れる温水が空気を暖め、暖まった空気が部屋を満たせばポカポカするでしょ?あとは、南から流れこむ季節風の影響も大きいんだ。雨も内陸部にしか降らないから、観光にはうってつけのリゾート地ってわけ」
「ハネムーンにもね」
す、と横からテーブルに滑りこまされたのは、かの有名なブライダル情報雑誌である。
どうしてハンター世界にハンター語で書かれた『ゼクシィ』が存在するのかはさて置いて。
「青く、どこまでも透き通る海と空。変化に富んだ自然。遊びつくせないほどのマリンアクティビティー。世界中の超一流ホテルやブランド店、カジノが立ち並ぶメインストリート。朝から晩まで楽しく遊んで、激しく愛を高め合う。恋人達の楽園、マーレ諸島……やだなー、ポーったら。こんな回りくどいやり方しなくたって、今すぐに俺と結婚したいんなら、そう言ってくれればいいのに。で、式場はどこがいい?」
「ちちちちちちちちちちちちちがががががが……!!」
「え……違うの?」
う!
そ、そんなおっきな黒目でじいっと見つめられると……!!
「ち、がわない……と言えなくもないことはないけど、いいい今は、あくまでミルキくんのダイエットの為に、ここに行くんだからねっ!」
「ちぇ。分かったよ」
パラパラ……雑誌をめくりながら、『乙女の憧れ☆ときめきパッピーウェディングドレス特集』が、わざと私によく見えるようにため息なんかついている限り、まだ諦めてないな……うん。
「で、ここで何をやろーっていうんだよコフー。言っとくけど、マリンアクティビティーなんてやらねーぜぐほあっ!?い、いきなり蹴り入れるのやめてくれよイル兄っ!!」
「ミル……お前、俺とポーが貴重な休みの日を削って、お前なんかの為に一肌脱いでやろうっていうのに、何様のつもり。何なら、今すぐにその脂肪を絞り出してやってもいいんだよ?物理的に」
おおう、いつの間に立ち上がったんだイルミ。
そして、その長いおみ脚を、ぐいぐいとミルキの贅肉にめり込ませている。
おーい、足首まで埋まってるぞ―。
大丈夫か、ミルキくん……。
「いででででででで!!!!痛いよ助けてポー姉――っ!!」
「いいけどさぁ、ちゃんと頑張ってダイエットするって約束してね?」
「するするするするっ!!」
「ついでに、私とイルミの携帯が、深海3000メートルにいてもちゃんと通じるように改良して欲しいんだけど……」
「はあ!?なんで俺がそんなギャアアアアアアアアアアアア!!わかっ、分かったから、やるよ!やればいいんだろコフー!!」
「分かればいいんだよ。で、ポー。この島に行ってバカンスを楽しみながら……この肉団子をどう料理するつもり?」
「うん。えー、それではご説明致します!マーレ諸島には大小合わせて100島以上の島々があるわけですが、このうちの一島を――」
インテリアに置いてあるチェスボードの上から、ミケを象ったナイトを失敬。
タンッ!
「買い取りました」
「過去形かよ!?」
「それって、まさか親父の名義で?」
「そうでーす!」
うわー、いつの間に、と無表情に呆れるイルミにVサインして。
「朝食のときに、ゴトーさんにお願いして手配してもらったんだー。いやー、助かったよ、ほんと。ここはね、穏やかな島国に見えるかもしれないけど、近年、観光事業や近代化で急激に開発されたせいで、排水による海洋汚染がすすんでいる場所でもあるんだー。さらに、近海では過去にヤバイ国のヤバイ実験が頻繁に行われた記録もあるの。土壌汚染だって問題視されてるんだよ。こういう地域でそういうことが起こるとどうなるか、分かりますか?ミルキくん」
「ええ!?えーっと、えーっと……コフー。分かった!風評が広まって、島を訪れる観光客が減る!!」
「ブー」
「ええー!」
「え、違うの?俺もそうだと思ったのに」
「違います。もーっときったなーいお話です。観光で儲けてる地域で、そういう、いかにも土地価が安くなりそうな場所があると……?」
「あ、そっか。分かった。悪徳業者が安値で買い取って事実隠蔽。海を埋め立てて高級リゾートホテルでも建設しようっていうんだろ」
「ピンポーン!イルミ大正解!実は、前からそういった動きには警戒してたんだけどね。資金が集まり次第、買い取ろうかと思ってたんだー。でもね、普通に買いとるんじゃなくって、ゾルディックの名義付きなら、そういう業者も素直に諦めてくれると思うんだよねー!」
「なるほどね。で、ここを買い取って、何をするの?」
「モチロン、ミルキくんのダイエットだよー!」
ゴソゴソ、バックパックの中から取り出したるは、メタリックな色彩の珊瑚の欠片だ。
ひょい、と指で摘んで、イルミが首を傾げた。
「今回ご協力頂くのは、この子!“ヴェノムコラルリウム”通称、毒珊瑚くん!海中の有害物質を率先して体内に取り込み、外殻を形成。ブダイなど、珊瑚礁を食い荒らす魚類からポリプを守る素晴らしい特性を持っている変化形珊瑚くんなんだ!人間には食べない限り無害だから、毒珊瑚っていう名称はちょっと考えものなんだけどねー。ミルキくんには、この珊瑚くんの植え付け作業を手伝ってもらいます!」
「はあ!?」
「海中での作業……か。なるほど。水による負荷をかけつつ、全身運動が出来るわけだ。陸上で運動するより効率良さそうだねー」
「そういうことー!この珊瑚、見た目よりずっと重いんだよね。それは外郭だけのサンプルだから欠片だけど、実際のものはもっと大きいよ」
「コフー、大きいって、どれくらい?」
「一株で、一抱えくらいかな?」
「重さは」
「2トン」
「重いにも程があるだろコフー!!」
「なら、両手に持たせて4トンだね。期限は4日。一日ごとに倍にしていくから、そのつもりでね」
「試しの門かよ!?もう嫌だー!俺は降りるっ、ダイエットなんかするもんかコフ――っっ!!」
「ははは。今更遅いよ」
「遅いもなにも、もう島が見えてきたよ?わあ、綺麗だねー!沢山の島々が輪になって、本当に首飾りみたい!」
「うおおおお放せポー姉ええええ――っ!!」
ジタバタ……暴れるミルキは完全無視で、私とイルミは離陸の準備をサクサク整え、飛空艇は無事に空港へと到着した。