ダークグレイのスーツに包まれた長身の男性。
その身から立ち上るオーラは荒々しい。
知らない男の人の変装はもはや髪型だけを残して崩れ去り、顔は元のイルミそのものだ。
凍てつくような無表情で前を向き、私の顔を見ようともしない。
迎えの車も使わずに、イルミは歩いて屋外飛行場を突き進んでいく。
プライベート空港の夜間便ということもあって、周囲にあまり人がいないのがせめてもの幸いだった。
「イル……」
「黙れ」
……うわあ。
怒ってる。
このタイプのイルミは覚えてるぞ、確か、天空闘技場でシルバさん扮したシロガネさんに、首筋にキスされちゃったときにもこんなだった!
こうなってしまったらもう、何を言っても火に油を注ぐだけだ。
分かってるよ。
短い付き合いじゃないんだから。
分かってるけど……。
「イルミ」
「……黙れって、言ったよね、俺」
「うん。でも、話を聞いてくれないなら、私、今すぐ家に帰っちゃうよ……」
イルミの足が止まる。
真横に、私が乗ってきた私用艇が停泊していた。
イルミの艇は、まだずっと向こうだ。
コンクリート敷の滑走路を照らしだす、無数の光。それによって深みを増す空の暗闇。
二つのコントラストの狭間に浮かび上がる、巨大な飛行艇の群れ――そんな景色がブレたのはほんの瞬きの間のことで、次に視界がはっきりとした時、私は豪華なホテルの一室にいた。
いや、違う。
ここは、イルミの飛空艇の中だ。
ため息のような――あるいは、言葉に出来なかった思いを吐き出すような長い息をついて、イルミは腕に抱えていた私を、ソファの上に降ろした。
そのまま、馬乗りになる。
「話、ね。ここまで来て、下手な言い訳はしないほうがいいと思うけど」
冷たい指に、つうっと喉元を撫でられて震えが走った。
見上げるイルミの顔は、元のイルミだ。
短かった銀髪も黒に戻り、いつの間にか腰の辺りにまで伸びている。
最後に残った縁無しの眼鏡を取り、放り捨てる。
暗い、夜を固めたような瞳の中に、ドレス姿の私がいた。
きらびやかに着飾った私を、イルミはただ、冷たく見下ろしているだけだ。
「それで、何を話したいの」
「……私、さっきイルミと電話で話した後に思いついちゃったんだよね」
「は?」
「イルミって、いつも仕事が終わって、次の仕事先に移動するときに連絡してくれるでしょ。だから思ったの。もし、私がそのときに飛行艇の中にいたら、ちょっとの間だけでも一緒に過ごせるんじゃないかって」
「……」
パチパチ、と、イルミの目が瞬いた。
どうやら、私の話に思考がついていけないらしい。
ちょっと待って、と言うように、眉間に指を当て、
「えっと……つまり、こういうこと?ポーは、俺がヨークシンから次の仕事先に移動する間を、同行しようとしてここに来た」
「そう。でも、そのときは家に他に人がいなくて、イルミが今どこにいるのかが分かんなかったんだ。だから、もしかしたらヒソカさんだったら知ってるかも知れないと思って電話したの。忙しいときには、時々イルミのヘルプに入ってるでしょ?」
「そうだけど……ああ、それで見返りにデートしろって言われたんだ」
ううん、と私は首を振った。
「ヒソカさんには、ベントラ魚市場での海鮮食べ放題で手を打ってもらった。それで、イルミの次の仕事はヨークシン。その次はアジエアン大陸に行くんだってことがわかったから、長距離移動に入る前に、なんとかリンゴーン空港で会えたらって考えたわけ。でも、私の普段着じゃ、イルミがいつも利用してるラウンジに入れて貰えないと思って」
「……それでヒソカに」
「違うってば……あのね、ヒソカさんは勝手に来たの。待ち合わせしたわけでもなんでもないんだから」
即答する私に、イルミはくりっと首を傾げる。
どうやら、話の続きを催促されているようなので、私は再び口を開いた。
「困ってたところに、お仕事が早めに終わったキキョウさんが帰って来てくれたの。だから――だから、このドレスを選んで、着つけてくれたのはキキョウさんなんだ……」
「母さんが?」
ぎょっ、と猫目がまんまるになる。
ソファに組み伏せる格好から身を起こして、イルミはもう一度まじまじと、私の頭から爪先までを凝視した。
「本当だ。そのネックレス、前に母さんがしてるのを見たことがある」
「でしょ?」
「でも、まさか、母さんが許してくれたの。海月が仕事場への移動中に俺に同行していいって?」
「うん。一、二時間のフライトじゃダメだって言われたけど、今回は十時間以上かかる現場だから。それに、急なお仕事でイルミに会えなくなったって泣きついた後だったから、仕方がないなって思ってくれたんだと思うよ」
「……本当に、うちの家族は海月に甘いよね」
安堵とも嘆息ともつかないため息と同時に、イルミの背後に揺らめいていた物騒なオーラが霧散した。
そっと、手の平で頬に触れ、眦に浮かんでいた涙を取り去ってくれる。
「――それで?」
「なんとかラウンジに行ったら、ヒソカさんにちゃっかり待ち伏せされてて」
「うん。言っておくけど、それは海月の落ち度だからね。あいつの趣味は人を困らせて楽しむことだ。性格だって充分把握してるだろ。面白がって見に来そうなことは予測出来たじゃないか」
「う……、そ、そうかもしれないけど、ゾルディックの他の皆はお仕事中だし、私的な質問のために、邪魔するわけにはいかないと思って」
「ミルキがいるだろ。あいつの仕事には俺達のスケジュール管理も含まれてるから、部屋にこもってるあいつに声をかけさえすれば、済んだ話だ」
「えっ!?そ、そうだったんだ……!」
知らなかった……。
真っ青になる私に、イルミはくりっと首を傾げた。
「そう。なのに、よりにもよって一番リスクの高い相手に、自分から餌をまくような真似をしたんだよ、海月は」
「う……」
「しかも、俺に声をかけてきたときの態度もなんか変だったよね。どうして普通に名前を呼んでくれなかったの?そうしたら俺だって海月だってすぐに勘づいたのに。まるで、わざと隠して、俺が気づくかどうか試すような言い回しだった」
ぎく。
「そ、そんなこと――」
「あるよ。もしかして、ヒソカと賭けでもしてた?」
ビクッ!
大袈裟なまでに震えた肩に、イルミはすうっと目をすがめた。
「図星なんだ。ふーん。海月はヒソカと一緒になって、俺を試して遊んでたんだ。酷いなー、海月は。婚約者である俺を、賭けの対象にするんだから。これはもう、どんなお仕置きをされたって文句言えないはずだよね」
「ええっ!ちょ、ちょっと待ってよ!?」
「ダメ。当然だろ?俺は、話を聞くとは言ったけど、それで海月のしたことを許すとは言ってないからね」
「――っ!」
……許す?
その、あまりにも上から目線の言葉に、頭にカアッと血が上るのを抑えきれなかった。
同時に、パンッ!と乾いた音。
イルミが右の頬を抑え、その前を、発射後の念の触手がシュルシュルと縮んでいく――久しぶりのビンタだった。
「海月……?」
「イルミの馬鹿!なにがお仕置きよ、今回は私が悪いんじゃないよ!!悪いのはイルミじゃないの!」
無意識に、念の泡が発動していた。
私を包み、大きく膨れ上がると同時にイルミの身体を押しのける。
半径は一メートルほど。
予想だにしていなかった抵抗だったためか、イルミは後方に飛ばされて尻餅をついた。
ソファから勢い良く立ち上がった私を、ぽかんとした目で見つめている。
訳が分からない。
そんなイルミに、それまで胸の中に押し込めていた怒りが沸騰した。
この俺様マイペース操作系……!!!
「だってそうでしょう!?折角、折角……イルミのためにドレスアップして会いに来たのに、に、似合わないって言うしさ!!そういうお仕事のお姉さんだと勘違いして酷いこと言うし。ああそうだ、自分をねらいにきた殺し屋だと勘違いして殺そうとも思ったんでしょ!?その上、私がヒソカさんと浮気してたみたいな言いがかりつけて、勝手に怒って!!そりゃあ、全く悪くないとは言わないよ?考えなしにヒソカさんに連絡入れちゃったことも、ヒソカさんの挑発に乗ってイルミのことを試したりしたのはいけなかったと思うよ!でも――気がついてくれるって信じてたもん!!それなのに、イルミは私のことを見てくれなかった。本当に、見向きもしてくれなかった……」
今だってそうだ。自分の気持ちばっかり私に押し付けて、私の気持ちになんか気づいてもくれない。
どうしてこんなところに来たのかも。
どうしてこんな格好をしているのかも。
どちらも、動機は呆れるほど単純なのだ。
私は、ただ――
「……イルミに、喜んで欲しかっただけだったのに」
「……」
「それが気に食わないって言うんなら、もういいよ。イルミの気が済むまで、お仕置きでも拷問でもすればいいじゃない。でも、その代わり私は二度とこんな真似しないから。寂しくなってイルミに会いに行く事も、イルミのために綺麗に着飾ることも、絶対にしない……」
「俺のため……?」
「それ以外の何があるの」
イルミの瞳が僅かに揺らぐ。
私はその目を真っ向から睨みつけた。
イルミは職業柄、他人の考えを呼んだり、動向を推測することが得意だ。
でも、そのかわり、他人の気持ちを考えることが出来ない。
好意を好意と受け取らず、何か裏があると必ず考える癖がある。
殺し屋には必要な思考かもしれない。
でも、イルミには必要ない。
私と一緒にいるとき、彼は暗殺者ではなくイルミだから。
だから、イルミにはそんな風に私の気持ちを疑って欲しくない。
そんなことは、させない。
「海月……」
立ち上がり、イルミが手を広げる。
促されたものの、私はその場から動かなかった。
念の防御も解かない。
イルミは人差し指を唇に当て、しばらく考え込んだ。
「どうしよう。俺、海月に酷いことしちゃったんだね」
「……」
「傷つけることも、いっぱい言っちゃったし」
「……」
「暗殺のことに頭がいっぱいで、ドレスアップした海月にも気づけなかった」
「……」
「――ごめん」
掠れた声。
イルミは相変わらす、無表情で突っ立っている。
けれど、その右目の端からつうっと一筋、水滴が光って落ちた。
「海月、ごめん……お願いだから許して。俺のこと、嫌いにならないで」
だらりと力なく垂れた手の先が震えている。
ええっ!?
「イ、イルミ!?な、なにもそんな、泣かなくたっていいじゃない!」
「だって……もしかしたらこのまま、海月が俺のこと嫌いになるかもって思って。それで家を出ていって、ずっと海の中で暮らしてるうちに、イカになっちゃたらどうしようって――」
「ならないから!いろんな意味でそんな風にはならないから!!も、もう、泣くのはズルいよ、反則だよ!針で操作なんかしてないよね。もしそうだったら本気で怒るよ?」
「してないよ」
ぐす、と鼻をすすって、イルミは小さな子がするみたいに手の甲で涙を拭った。
「でも、久しぶりに泣いたら目が痛いや」
「大丈夫?変な誤解をやめて、ちゃんと誤ってくれたんだから許すよ。こんなことで嫌いになんかならないから」
「本当に?」
「うん。本当」
「ありがとう……」
ふわり、と。
まるで、花の蕾が綻ぶように、念の泡が膨らんで消えていく。
再び腕を広げたイルミの腕に、私は迷わず飛び込んだ。
***
「もう、ほんっとにイルミのバカ……!!」
「うん、ごめんね」
「ごめんねじゃないよ。もう、なんでそんな勘違いばっかりするの。私のことがそんなに信用出来ない?」
所変わって、飛行艇内に設けられたベッドルーム。
キング、とまではいかないけれど、それでも広々としたクイーンサイズのベッドの上に、私の身体は横たえられていた。
仰向きに、イルミの顔を睨みつける。
彼は困ったように首を傾げた。
「だってヒソカが」
「信・用・出・来・な・い?」
「……ううん」
「今回は許してあげるけど、今度変な勘違いして怒ったら、オーダーメイドで空母買ってもらうからね!」
「それはいくらなんでも無」
「買ってもらうからね!!」
「……うん。わかった。もう二度と変な勘違いしないから、許して」
「いいよ」
腕を伸ばして、いつものようにきゅうっと抱きつくと、それまで強ばっていた彼の身体からふうっと力が抜けていった。
耳元に、イルミが囁く。
「海月……このまま抱いてもいい?」
「え……う、うん。いいけど、でも……その前にシャワーを浴びて着替えてくる」
「なんで?そのままでいいのに」
「……」
「海月?」
「だって、このドレスじゃ……んっ!?」
ぐい、とベッドに押し倒された途端、唇を奪われた。
「ん……んん、イ、ルミ……!」
「綺麗だよ……」
やさしいキスだった。
何度も謝罪を口にしながら、イルミはその度にキスを落とす。
唇に、頬に、額に、眦に――
もう、何度も泣いたからお化粧はボロボロだし、普段は付けない口紅もつけていたから、キスを終えたイルミの唇も真っ赤になっていて。
親指で汚れをとってあげようとしたら、その指にまで口づけられた。
海月、とまた耳元で囁く。
「綺麗だよ。似合ってないなんて言って、ごめんね。あのときは、ヒソカに選んでもらったんだって思い込んでたから、あいつに海月を取られたような気がして嫌だったんだ」
「……そっか。ありがとう。でも、無理しなくていいよ。らしくないのは自分でも分かってたから。だいたい、キキョウさんのドレスが私に似合うわけないよね。イルミの言った通り、変装だった。私じゃなくて、なんだか別の人みたいだったもん」
イルミは嘘はつかないもんね。
にっこり笑うと、イルミは複雑な顔で私を見下ろした。
ややあって、そうだ、と思いついたように手の平を打つ。
「ねぇ、海月。この仕事が終わったら、二人でドレスを見に行こう。俺が新調してあげる。もうじき、クリスマスだしね」
「で、でも、クリスマス時期はお仕事が忙しいでしょう?クリスマスパーティーでターゲットが浮かれてるときなんて、絶好の暗殺日和なんじゃないの?」
「父さんみたなこと言わないでよ。海月が俺とクリスマスデートしてくれるなら、死ぬ気で休みを取る」
「本当に……!?私、たぶん無理だろうなって諦めてたんだけど、本当にいいの?」
うん、と眼を細めるイルミに、今度は私からキスをした。
「イルミ……ありがとう!!」
「どういたしまして――」
イルミの唇が降りてくる。
そっと、首筋に落とされた口づけに、私は今度こそ全てを彼に任せようと思った。
丸い飛行船の窓の外には、真っ白な雲の海と星空が広がっている。
アジエアン大陸まで、あと10時間と少し。
イルミとの夜は、まだ始まったばかりだーー