「ん……?」
怒れるキキョウから無事に逃げおおせた、ゾルディック家御大、シルバ・ゾルディックが、ブランデー片手にバルコニーへ顔を出したとき、その片隅に、妙に見覚えのある背中を見つけた。
漆黒の夜会服に身を包んだ、長身の青年――あれは、間違いなく息子のイルミだ。
その背に落ちる長い髪のせいで、女性的な印象が強いが、しかし、バランスよく鍛えられた体格の良さは、スーツ越しにも伝わってくる。
ただ……今日はいつもより心なしか、その背中が寂しそうに見えた。
気のせいではあるまい。
「イルミ」
背中から声をかけると、青年は僅かに肩を震わせ、こちらを振り向いた。
「……ああ、父さんか」
顔色が悪い。
ただでさえ、イルミは兄弟の中でも色が白いのに、白いを通り越して蒼白だ。
いつにも増して精気のない眼差しが、濡れたように光っている。
何かあったのか。
口に出しかけた問いを、野暮だなとシルバは飲み込んだ。
パーティーに呼ばれていないはずの息子がここにいるということは、おそらく、ポーがここに来る前に、執事づてに話を回したのだろう。
イルミは危険を察知して、抱えていた仕事を終わらせるなり、こちらへ駆けつけてきたに違いない。
そして、おそらく……いや、確実に。
「ポーと、なにかあったのか」
「……うん」
シルバの問に、こくり、とイルミは頷いた。
バルコニーの手摺に両肘をつき、ズウン、と分かりやすく落ち込んでいる息子の隣に、シルバは並んで立つ。
「喧嘩か」
「……うん」
「俺のせいか」
「……分かってるんなら、こんなところにポーを呼び寄せたりしないでよ」
「すまん」
クックッ、と、喉の奥で笑うシルバに対し、しかし、イルミの声に怒りの色はない。
怒っていないわけではないだろうが、要するに、怒りの気持ちが沸き起こってこないほど、純粋に落ち込んでいるのだ。
殺し屋がそんなことでどうする、と、他のことなら怒鳴りつけてやるところだが、自分にも覚えのある経験故に、シルバは何も言わなかった。
細い息を長く吐いて、イルミはうなだれる。
長く伸ばした髪が顔を覆って、横顔は見えない。
ただ、彼は両手の中に携帯電話を握りしめていた。
しっかりと、祈るように。
バルコニーに落ちる闇の中で、青く光る画面が眩しかった。
しかし、そこに映しだされているものに、シルバは意外がった。
「GPS……? 誰を追っている」
「……ポーだよ」
「ポー?」
何故だ、というシルバの問に、しかし、イルミは小さく嘆息しただけだった。
「……ねえ、父さん。俺って、過保護なのかな」
「何の話だ。なにがあったのか、話してみろ」
「……賭けをしたんだよ。俺が駆けつけた時、ポーってば、クロロに迫られててさ。ベンチに押し倒されそうになってるのに、相変わらずポーッとしてるから、俺、カッとなっちゃって、怒ったんだ。そしたら、証明するって」
「証明?」
「自分が本気になったら、相手が誰でも逃げられるってことを示すから、試せって言ったんだ。俺に押し倒された状態から、逃れて、一時間逃亡できたら、ポーの勝ち。ポーが勝ったら、今夜のことは全部許してって……」
その言葉尻に、携帯のアラーム音が重なった。
タイムオーバー、ポツリ、とイルミが言う。
「俺の負け」
「後を追わなかったのか?」
「ポーは、ホテル周辺の湖から、水道を通って、都内の河川へ逃れた。あとは海までノンストップ」
「……」
「河口までは追ったよ。でも、
はい、と手渡された携帯の画面には、
「ヨークシンベイエリアから沖合い約五キロか。港で水上バイクをチャーターすれば追えただろう」
「そこ、ちょうど海溝があるんだよ。グリンドリアン海溝っていう、
「割に合わない仕事だな」
「全くだよ……賭けをする前に気がつくべきだった。俺は、殺し屋なんだ。
舐めてたのは、俺のほうだったよ。
力なく、イルミは呟く。
「ポーってさ、会うたびにどんどん強くなっていくんだ……そのうちに、
「イルミ」
「何?」
くるり、とこちらを向いた長男の白い額に、シルバは中指を叩き込んだ。
ビシッ、と、いい音が夜闇に響く。
イルミは丸く目を見開いて、しばらく固まっていたが、ややあって、
「……痛いよ」
「だったら、府抜けてないで避けろ」
お前らしくもない、とシルバは鼻で笑う。
「いいか、イルミ。ポーは、
「理由……」
シルバの手の中で、再び携帯が鳴った。
「ポー」
今度は、瞬時にイルミが反応した。
差し出した携帯を、奪うように取って耳に当てる。
「――ポー、俺だよ。今、どこにいるの?……わかった。
言いながら、イルミはバルコニーの手すりを飛び越える。
庭の奥へと、足早に去っていこうとする背中を、シルバは呼び止めた。
「何?」
「持っていけ。一ヶ月早いが、俺からポーへの礼だ」
無造作に放ってよこされたそれは、ホテルのルームキーだ。
しかも、ルームナンバーは最上階を指している。
このホテルの最上階に、部屋は一室しかない。
メキリ、と軋むほどに鍵を握りしめ、イルミはシルバを振り向いた。
「……スウィートルーム? 父さん、これをポーへの礼って、俺が来なかったらなにをどうするつもりだったの」
「さあな。だが、あいつがお前に連絡せず、また、連絡を受けたお前がこの場に来ないことがありうるか?」
「……」
無言のイルミに、シルバはそういうことだ、と背を向ける。
その姿が見えなくなるまで見送って、イルミはため息混じりに言い捨てた。
「……借りなんて、作らないからね」