シルバさんと一緒~ある年の年のゾル家のバレンタイン!~ その7

 

 

 

 

 

「ん……?」

 

 

 

怒れるキキョウから無事に逃げおおせた、ゾルディック家御大、シルバ・ゾルディックが、ブランデー片手にバルコニーへ顔を出したとき、その片隅に、妙に見覚えのある背中を見つけた。

 

 

 

 

漆黒の夜会服に身を包んだ、長身の青年――あれは、間違いなく息子のイルミだ。

 

 

 

 

その背に落ちる長い髪のせいで、女性的な印象が強いが、しかし、バランスよく鍛えられた体格の良さは、スーツ越しにも伝わってくる。

 

 

 

 

ただ……今日はいつもより心なしか、その背中が寂しそうに見えた。

 

 

 

 

気のせいではあるまい。

 

 

 

 

「イルミ」

 

 

 

 

背中から声をかけると、青年は僅かに肩を震わせ、こちらを振り向いた。

 

 

 

 

「……ああ、父さんか」

 

 

 

 

顔色が悪い。

 

 

 

 

ただでさえ、イルミは兄弟の中でも色が白いのに、白いを通り越して蒼白だ。

 

 

 

 

いつにも増して精気のない眼差しが、濡れたように光っている。

 

 

 

 

何かあったのか。

 

 

 

 

口に出しかけた問いを、野暮だなとシルバは飲み込んだ。

 

 

 

 

パーティーに呼ばれていないはずの息子がここにいるということは、おそらく、ポーがここに来る前に、執事づてに話を回したのだろう。

 

 

 

 

イルミは危険を察知して、抱えていた仕事を終わらせるなり、こちらへ駆けつけてきたに違いない。

 

 

 

 

そして、おそらく……いや、確実に。

 

 

 

 

「ポーと、なにかあったのか」

 

 

 

 

「……うん」

 

 

 

 

シルバの問に、こくり、とイルミは頷いた。

 

 

 

 

バルコニーの手摺に両肘をつき、ズウン、と分かりやすく落ち込んでいる息子の隣に、シルバは並んで立つ。

 

 

 

 

「喧嘩か」

 

 

 

 

「……うん」

 

 

 

 

「俺のせいか」

 

 

 

 

「……分かってるんなら、こんなところにポーを呼び寄せたりしないでよ」

 

 

 

 

「すまん」

 

 

 

 

クックッ、と、喉の奥で笑うシルバに対し、しかし、イルミの声に怒りの色はない。

 

 

 

 

怒っていないわけではないだろうが、要するに、怒りの気持ちが沸き起こってこないほど、純粋に落ち込んでいるのだ。

 

 

 

 

殺し屋がそんなことでどうする、と、他のことなら怒鳴りつけてやるところだが、自分にも覚えのある経験故に、シルバは何も言わなかった。

 

 

 

 

細い息を長く吐いて、イルミはうなだれる。

 

 

 

 

長く伸ばした髪が顔を覆って、横顔は見えない。

 

 

 

 

ただ、彼は両手の中に携帯電話を握りしめていた。

 

 

 

 

しっかりと、祈るように。

 

 

 

 

バルコニーに落ちる闇の中で、青く光る画面が眩しかった。

 

 

 

 

しかし、そこに映しだされているものに、シルバは意外がった。

 

 

 

 

「GPS……? 誰を追っている」

 

 

 

 

「……ポーだよ」

 

 

 

 

「ポー?」

 

 

 

 

何故だ、というシルバの問に、しかし、イルミは小さく嘆息しただけだった。

 

 

 

 

「……ねえ、父さん。俺って、過保護なのかな」

 

 

 

 

「何の話だ。なにがあったのか、話してみろ」

 

 

 

 

「……賭けをしたんだよ。俺が駆けつけた時、ポーってば、クロロに迫られててさ。ベンチに押し倒されそうになってるのに、相変わらずポーッとしてるから、俺、カッとなっちゃって、怒ったんだ。そしたら、証明するって」

 

 

 

 

「証明?」

 

 

 

 

「自分が本気になったら、相手が誰でも逃げられるってことを示すから、試せって言ったんだ。俺に押し倒された状態から、逃れて、一時間逃亡できたら、ポーの勝ち。ポーが勝ったら、今夜のことは全部許してって……」

 

 

 

 

その言葉尻に、携帯のアラーム音が重なった。

 

 

 

 

 タイムオーバー、ポツリ、とイルミが言う。

 

 

 

 

「俺の負け」

 

 

 

 

「後を追わなかったのか?」

 

 

 

 

「ポーは、ホテル周辺の湖から、水道を通って、都内の河川へ逃れた。あとは海までノンストップ」

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

「河口までは追ったよ。でも、それ以上はとても追えなかった」

 

 

 

 

 

はい、と手渡された携帯の画面には、ポーの携帯電話から発信されている位置情報が示されていた。

 

 

 

 

 

「ヨークシンベイエリアから沖合い約五キロか。港で水上バイクをチャーターすれば追えただろう」

 

 

 

 

 

「そこ、ちょうど海溝があるんだよ。グリンドリアン海溝っていう、長さ2275キロメートル、深さは最深部で6669メートルの、プレートの沈みこみ帯がさ。ポーは、俺から本気で逃げるって言ってた。位置は分かるけど、どこまで深く潜っているか、予測がつかない」

 

 

 

 

 

「割に合わない仕事だな」

 

 

 

 


「全くだよ……賭けをする前に気がつくべきだった。俺は、殺し屋なんだ。待つのも仕事のうち。普段なら、不利なら待って、暗殺の確率を上げる。でも、一時間って時間制限がある時点で――このホテルに、水場がある時点で、俺に勝機はなかった」

 

 

 


舐めてたのは、俺のほうだったよ。

 

 

 


力なく、イルミは呟く。

 

 

 

 

「ポーってさ、会うたびにどんどん強くなっていくんだ……そのうちに、俺のことなんか置いて、どこかに行っちゃうかもね。キルみたいに」

 

 

 

 

「イルミ」

 

 

 


「何?」

 

 

 


くるり、とこちらを向いた長男の白い額に、シルバは中指を叩き込んだ。

 

 

 

 

ビシッ、と、いい音が夜闇に響く。

 

 

 

 


イルミは丸く目を見開いて、しばらく固まっていたが、ややあって、迷惑そうにシワをよせた。

 

 

 

 


「……痛いよ」

 

 

 

 


「だったら、府抜けてないで避けろ」

 

 

 

 

お前らしくもない、とシルバは鼻で笑う。

 

 

 

 

「いいか、イルミ。ポーは、陸上で暮らすよりも、海で生きるほうが、能力的にも身体的にもよほど合っている。それでも、あいつは休みのたびに標高3770メートルの山の天辺に戻ってきて暮らしている。何故だ。その理由をよく考えてみろ」

 

 

 


「理由……」

 

 

 

 

シルバの手の中で、再び携帯が鳴った。

 

 

 

 

「ポー」

 

 

 

 

 

今度は、瞬時にイルミが反応した。

 

 

 

 

差し出した携帯を、奪うように取って耳に当てる。

 

 

 

 

「――ポー、俺だよ。今、どこにいるの?……わかった。今すぐいくから、そこで待ってて」

 

 

 

 

言いながら、イルミはバルコニーの手すりを飛び越える。

 

 

 

 

 

庭の奥へと、足早に去っていこうとする背中を、シルバは呼び止めた。

 

 

 

 

「何?」

 

 

 

 

「持っていけ。一ヶ月早いが、俺からポーへの礼だ」

 

 

 

 

無造作に放ってよこされたそれは、ホテルのルームキーだ。

 

 

 

 

しかも、ルームナンバーは最上階を指している。

 

 

 

 

このホテルの最上階に、部屋は一室しかない。

 

 

 

 

 

メキリ、と軋むほどに鍵を握りしめ、イルミはシルバを振り向いた。

 

 

 

 

 

「……スウィートルーム? 父さん、これをポーへの礼って、俺が来なかったらなにをどうするつもりだったの」

 

 

 

 

「さあな。だが、あいつがお前に連絡せず、また、連絡を受けたお前がこの場に来ないことがありうるか?」

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

無言のイルミに、シルバはそういうことだ、と背を向ける。

 

 

 

 

 

その姿が見えなくなるまで見送って、イルミはため息混じりに言い捨てた。

 

 

 

 

 

「……借りなんて、作らないからね」