眠らない街、大都市ヨークシンシティー。
リンゴーン空港へ降り立った私とイルミは、家用だというリムジンに乗り込んだ。
もう深夜も近いというのに、通りには車のテールランプが列をなし、人の通りもまだまだ多い。
スモーク張りの窓の外を、モノクロトーンの街の夜景が流れていく。
通りのそこかしこに点滅する、HUNTER文字のネオンサイン。
こっちの世界にきてもう随分経つから、生活や研究に不自由のない程度には読めるようになったけれど。
……。
なんだか、まだ夢を見てるみたいだ……。
「……私、本当にこっちの世界で生きていこうとしているんだな」
「海月、なにか言った?」
涼やかな、でも、心なしか心配気な声に目をやると、隣に腰掛けたイルミが首を傾げていた。
先程まで着ていた暗殺服からダークな色のスーツに着替え、まるで高級ホテルのラウンジさながらの座席に身を預けている。
「な、なな、なんでもないの!ちょっと、こっちの話っ!」
「そう」
無理しないでね、と優しく頭なんか撫でてくれるイルミから、ちょっと目を逸らす――ううっ!
イルミ……かっこ良すぎるよう!!
このままの格好じゃ一般の場所に行くと目立つからと、私も一緒に飛行船の中で着替えたんだけど……こんなフワフワのシフォンドレス、着慣れなくて落ち着かないし、しかも、ピンク色……うう。
それに引き換え、イルミはいかにもこういう格好はし慣れてますって感じだ。
この服装といい、この豪華なリムジンといい、いい一体、これからどこへ連れて行こうって言うんだろう。
なんか、不安でいっぱいで緊張してきた――!!
「汗、びっしょりだけど大丈夫?疲れてない?」
「だ、だだだだだだいじょっぶぶっぶぶ……!!」
「うん。わかった」
待っててね。と、サイドのバーカウンターからグラスを取り、飲み物をついで差し出してくれる。
「はい、ジュース」
「あ、ありがと……ごめんね」
「ううん。今夜は――というか、ここ二日間は海月に無理させてばっかりだったから、気疲れして当然だよ。せっかく家から離れたんだから、二人でゆっくりしようと思って、ちょっといい所を手配したんだ。だから、期待してて」
「え……」
気がつけば、肩に手が。そ、それに、イルミの黒目がなんだかキランキランしている気がする!!
な、なんだか嫌な予感……大体私、疲れてる以上にこのブルジョワ感溢れる空間に押しつぶされそうになってるだけなんですけど!?
「あ、あのねイルミ、違うの。そうじゃなくて――」
「見えたよ、海月。あのホテルだ」
すうっと差し伸べられた指先に、続く言葉を遮られてしまう。
しぶしぶ、目をやったその先にあったものに、私は今度こそ言葉を失ってしまった。
「こ……!?」
ここって!?
あんまりのことに口をパクパクさせるだけになってしまった私に、イルミはしれっと言った。
「“ノーザンクロス・グランドキグナスホテル”。その反応だと、海月もこのホテルのことは知ってるんだね」
「ししし知ってるもなにも……!」
知らないほうがおかしいよ!
大都会、ヨークシンの中心部。
気の遠くなるようなビル群が、高さを競いあうようにひしめくその一角に、場違いなほどに広大な庭園が存在する。
庭園の入口には赤レンガの壁。
薔薇の垣根に、黒い鉄柵造りの巨大な門。
そこに掲げられたホテルのシンボルマーク――羽根を広げた白鳥のレリーフはあまりにも有名で、こういうキンキラキンの世界には馴染みのない私だって名前を知っている……それくらいの、超高級ホテル中の超高級ホテルなのだ。
湖上に浮かぶ白亜の城。
“ノーザンクロス・グランドキグナスホテル”。
「すごいでしょ?」
心なしかドヤ顔をしているらしいイルミに、もう、もう……がっくりと項垂れるしかない。
「すごいよ……すごいけどさあ、いくらなんでもこんな高い所とらなくったって……!!」
「高い?そんなことないよ。一応断っておくけど、ここ、食事やルームサービスを含めて宿泊費は全部タダだからね。セキュリティーもしっかりしてるし。情報漏洩の心配もいらないから、俺ん家は家族揃って利用してるんだ」
「その代わりに全会員制なんでしょ?その年会費が馬鹿高いんでしょうが!!」
まあね、と悪びれもなく答えるイルミ・ゾルディック。
そうだ……花嫁修行という名の命がけのゴタゴタで忘れかけてたけど、ゾルディック家って言ったら個人所得の世界ランキングで必ず上位にランクインするってくらいの大富豪なんじゃないの。
イルミはそこの長男で、跡継ぎじゃないけど――いや、キルアのその後を知ってる私からすれば、イルミは間違いなく後に跡継ぎ候補に上がるであろう、仕事真面目な長男なわけで――
「……」
私。
今更ながら、なんて人のもとに嫁入りしようとしてるんだ――――っっ!!!
しかもこんな遅い時間にこんな高級なホテルにだなんて!!
部屋に入っちゃったらもう色々と逃げられなくなるじゃないの!?
そりゃあ、そりゃあ……完全に嫌ってわけじゃないけどでも!!
「海月?ねえ海月、顔が紫色なんだけど。本当に大丈夫?」
「だ……いじょぶ」
いや。
大丈夫じゃない。
はっきり言って、これはマズイ!
全然大丈夫なんかじゃないよ!
どどどどうしよう!!
で、でも今更帰るなんて言えないし、帰るところって言えばククル―マウンテンしかないわけだし……!!
こ、これって密かに絶体絶命のピンチってやつじゃ……。
「ねー、海月。やっぱり顔色がヘン。どうしたの?あ、さては車酔いしたんだね。じゃあ、一刻も早く部屋へ行って休まないとね。今夜は俺が一晩中側にいてあげる」
「……」
イルミそんな、心から君を心配してる的なオーラ全開にしてるけど、絶対確実100パーセント確信犯でしょうが―!!
この肉食操作系――!!!
そんな、心の叫びが虚しく響き渡る中。
私とイルミを乗せた黒塗りのリムジンは、重厚なホテルの門扉を抜けて敷地内へと吸い込まれるように進んでいってしまった。
***
「ほーら、海月。ホテル最上階のスウィートだよ?」
「うん……」
「全室どこの窓からでも湖が見渡せるし、バーカウンターもあるし、奥のバルコニーには屋外ジャグジーもあるんだよ?」
「うん……」
「でね、寝室のベッドはなんと、天蓋付きのキングジェルベッドなんだ」
「…………うん」
すごいね。
ほんとに、すごい。
全室8LDKのロイヤルスウィートルームだなんて。
しかもその全室が、床も柱も天上も、当たり前のような純白の大理石造り。
置かれている調度品も銘の彫られた一級品ばかり。
ホテルマンに部屋へ案内された後、イルミは私の手を引いて各部屋を渡り歩いているのだけれども……。
うおおおおおおお~~!!!
すごすぎて涙が出てくるううううううううううううううううう~~っ!!
「え。海月、もしかして泣いてるの?」
やだなー、そんなに感動してくれるなんて。
なんてことを、くりっと首を傾げつつ、しれっとのたまうイルミである。
このマイペース操作系!!
「ち、違うよ! 別に感動してるわけじゃなくて、これはただ――」
キランキランな空間に足がすくんでいるだけです……!!
そう言いかけた言葉は――でも、次に見上げたイルミの無表情に押しとどめられてしまった。
もうほんと、凍りついたかのような真顔!
「違うの……?もしかして、気に入らなかった?」
「えっ!……え、と」
「困ったなー。今から他のホテルを当たってもいいんだけど、もう夜も遅い時間だから移動時間を考えると――」
「そそそんなことないよ!!すっごくいいホテルだよ!?広いし、内装もお城みたいだし、私、スウィートルームなんて泊まったことなかったんだよね!だから、すっっごく嬉しい!!」
「ほんとに?」
「う、うん!ほんとにほんと!」
「そう……よかった」
海月、とイルミが誘うように手を差し伸べる。
おずおずながら握り締めると、私を見つめるイルミの目が、ほんの一瞬だけ底光りしたように思えた。
なんか……なんだか、やっぱり怖い……。
「おいで、海月。今夜は色々会って疲れただろうから、早く休まないとね。車の中でも気分悪そうだったし」
「う、うん……それはそうだけど――」
「だよね」
ぐいっと手を引かれ、バタン、とドアを閉められてみれば、そこは寝室。
い、今まで通ったどの部屋よりも豪華で広すぎる寝室だ……!!
しかも、いまだ私をエスコートし続けるイルミの背後には、まるで計算されたかのような天蓋付きのキングベッドが、さあカモンとばかりに置かれている。
こ、このままイルミの手を握りしめていたら、あとはもう――
ご想像の通り!!!
ダメだ!!
そんな、その場の雰囲気に流されるようなことがあってはダメよ海月……!!
もちろん、イルミにそういうことされるのは嫌じゃないだろうし、イルミのことも大好きなんだけど――だだだってだって!!
冷静になって考えてみようよ!!
ハンター試験で出会って二週間でしょ、それから告白もされないまま嫁に来いなんて言われて、その後半年間なんの音沙汰もなくて、で、ようやく再会を果たしてまだ二日目の夜!!
しかも、ついさっき好きだって告白されたばっかりなんだよ!?
それで早々とベッドインだなんて、出来るわけないじゃない――!!
「海月?」
コチン、と固まったしまった私のホッペタを、イルミの長い指がつんつんと突っついていた。
――はっ!
そうだ、まずはこの状況をなんとか回避しなければっ!
「どうしたの、急に黙りこんだりして。やっぱりこのホテル、気に入らなかった?」
「ちっ、違うの、ほんとにそんなことないよ! た、ただね、その、い、色々あって汗びっしょりになっちゃったから、その……!」
「ああ、先にシャワーを浴びたいってこと?」
ぽーんっと、手の平に拳をうつイルミ。
チャンス!!
「そう! そうなの、さっきからベタベタして気持ち悪かったんだよね~。さっき言ってた、屋外ジャグジーっていうの入ってみたいし! 行ってきていい? いいよね? じゃ、行ってくる!!」
「あ」
待って、と続くであろうイルミの言葉は聞かないふりで、寝室を飛び出しテラスへ猛ダッシュ。
こ、古典的な手がここまで役に立つとは思わなかった……!!
ありがとう、最初に考えついた人よ!!
大きなガラス戸を開けてテラスに飛び出すと、外気に濡れた石の温度が裸足からひたひたと伝わった。
緊張ですっかり火照ってしまっていた肌を、夏の夜風が滑っていく。
恐怖と緊張と不安で、血が昇りっぱなしだった頭もすうっと冷えて、気持ちが冷静になっていく心地がした。
「……よし」
右奥に円形の浴槽を持つジャグジーと脱衣所があったけれど、無視をしてまっすぐ手摺に駆け寄った。
テラスはホテル下階の屋根の上へ半円状に張り出す作りだ。薔薇と、白鳥の透かし模様の入った手摺で縁取られている。
下を覗きこむと、うろこ状の緑青の屋根瓦が平坦に近い傾斜で伸びていた。
このくらいの屋根なら、降りてつたえないことはない。
「あとは、警備員に見つからないように姿を隠して湖までたどり着ければなんとかなるはず。はあ……イルミには悪いけど、やっぱり今すぐにそういう関係になろうっていうのは、いくらなんでも早すぎるよ――」
幸い、この湖は貯水池を兼ねているから、湖底のどこかで外の水路と繋がっているはずだ。
水路から川、下流へ向かって海へ逃げたら、ほとぼりが覚めるのを待ってイルミに連絡を――
「海月」
「うわあっ!? ど、どどどどうしたのイルミ!? 待っててって言ったじゃない!」
「言われてないよ」
振り向けば、かの黒髪の麗人がスーツのジャケットを脱いだシャツ姿でこちらへやって来るではないですか!?
しかもその手がすっと胸元に伸びてネクタイを抜き取り、シャツのボタンをあああああああああああああああ!!
逃ゲロ。
逃げなきゃ犯られる!!
「海月」
「ななななななに!?」
「……今、何考えてたの?」
くりっ、と、首を傾げた拍子に肩から零れた黒髪がサラサラと風に舞った。
その毛先が触れるか触れないかという距離で立ち止まり、ぎゅっと身を固くした私の顔を見下ろしている。
イルミの瞳は暗いだけで、感情らしいものは何も映っていなかった。
怒っているのかどうかもわからない。
わからない……だけかもしれないけど。
私がわからないだけで、もしかしたらイルミはすごく怒っているのかもしれない。
あんな状態から、あからさまに寝室を飛び出したりしたから。
しかも、ほとんど無意識だったけど私、今、このホテルから本気で逃亡しようとしてたよね……。
イルミから、どう逃げようかって考えてた。
……。
気づいてるんだろうなあ……。
「海月」
「……イルミ、ごめん。私……私、今――」
顔を上げると同時に、温かいものに頬を包まれた。
イルミの手の平。
そのまま、唇が重ねられる。
「ん……っ」
「……」
軽く、啄まれるかのようなバードキス。
私が言おうとしていた言葉を、奪い取るようなキスだった。
――わかってる。
言葉のかわりに、大きな手の平がくしゃっと髪を撫でていく。
「イルミ……?」
優しい。
イルミが優しい。
「なんで……」
「なんでって、なにが?」
くりくり、髪を混ぜながらイルミが首を傾げる。
私は、心に浮かんでくる疑問をそのまま口にした。
「なんで、こんなに優しくしてくれるの……?私、逃げようとしたのに。イルミのこと怖がって、イルミから逃げようとしてたんだよ?ハンター試験中にだって、イルミ、私が逃げようとしたらすごく怒ったじゃない。なのに、なんでこんなに優しくしてくれるの……?」
「そんなの、海月が好きだからに決まってるじゃない」
あのねぇ、と呆れたように嘆息する。イルミは片膝をついて長身を屈め、私の顔を見つめて言った。
「好きだよ、海月。だから、海月が本気で嫌がるようなことは、絶対にしない」
誓うよ。
そんな風に、まるで、神聖な誓を立てるかのような仕草で、手の甲にキスなんかするものだから。
我慢できなかった。
抑えきれなかった気持ちの波がつめ寄せて、涙になって溢れ出す。今まで張り詰めていた気持ちの糸が、ぷつんと切れてしまったのだ。
目の前にあるイルミの顔が、背後の夜空へ、瞬く間に滲んでいく。
「イ……ルミ、私……」
「うん」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!!」
「……謝らなくていいよ」
泣きじゃくる私を引き寄せて、抱きしめてくれる。
さっきの、家族会議のときと同じように――思えばイルミは、私のためにシルバさんやゼノさん――ゾルディック家を敵に回すつもりだったんだ。
そうまでして、私のことを守ろうとしてくれていたんだ。
なのに、それなのに私は、自分のことしか考えてなかった。
ハンター試験後、イルミがどんな思いで私の気持ちを受け入れてくれたのか。
どんな思いで家に招いてくれたのか。
どんな――どんな思いで、今、私とこのホテルにいるのか。
そんなこと、考える余裕もなかった。
いつでも、自分の身を守ることに必死で。
そればっかりで――イルミの気持ちなんか、ちっとも考えられていなかった。
最低だ――
「ごめん……!ごめん、イルミ……私、私も言ったのに。イルミのこと、好きだって言ったのに、それなのに、逃げようとしてた。どうやったら逃げられるだろうって、そんなことばっかり考えてた……本当に、ごめん……!!」
「海月、もういいから。泣かないで」
指で涙を拭われ眼を開くと、思いのほか穏やかなイルミの目が私をのぞきこんでいた。
イルミの目は真っ黒だ。
夜天よりも、湖よりも、もっとずっと澄んだ闇を湛えた瞳。
「海月。俺、別に怒ってなんかいないよ?薄々勘付いてはいたと思うけど、確信犯だったし。ここにさえ連れこんでしまえば、さすがの海月も抵抗を諦めて俺のものになってくれるだろうって思ってさ。でも、よくよく考えてみれば、そういうものでもないんだよね?」
ごめんね。
囁きながら、瞼にキスを落とす。
「そんな騙すようなやりかたじゃダメなんだよね。海月にその気がないなら意味が無いから。正直に言うと、俺、今すぐにでも海月が欲しいんだけど。でも、ちゃんと待つよ」
「……」
「海月が、俺のこと欲しいって思ってくれるまで、待つ」