ちゃんと待つよ。
そんな約束を、イルミはちゃんと守ってくれた。
私がお風呂に入っている間も、
今は、かわりばんこで、彼がシャワーを浴びている。
暇になった私は、
夕御飯は食べたけど、そのあと、本当に色んなことがあったから、
ぼーっとしてたら、どんどん嫌なことを考えてしまいそうだし。
こんなところにまで言って、あんなわがままを通して、
面倒な女だって、呆れられていないだろうか、とか。
……やめよう。
考え出すとまた泣き出しそうになる。
それにしても、 「軽くつまめるようなものを…」なんて、
私の好みをそれとなく尋ねた上で、なんと、
「わあ……っ!」
鏡のように磨き抜かれた銀のクロッシュを開けてみれば、
一羽一羽、背中に乗せられた具材が異なり、「
しかも、真っ白な生クリームにパウダーシュガーを纏い、
さすが!
分かっていらっしゃる!!
ここのシェフは乙女心をガッチリ分かっていらっしゃるよ!!
淡雪のような生クリームの白さが目に染みて、
手には、お酒の瓶とシャンパングラス。
「なにしてるの。――あ、それ」
頼んだんだね、と目を細めながら、
深い紫色のバスローブからは、仄かに薔薇の香りがする。
「なんだかお腹がすいちゃって。勝手に頼んじゃって、ごめんね?
「いいよ。これ、このホテルの名物なんだよね。俺も好きでさ、
「そうなんだ!メニューを見ても、よくわからなかったから、
「えっ、食べないの?」
「食べるけど」
真顔で顔を見合わせて、一秒。
お腹を抱えて笑ってしまった。
「結局、食べるんじゃないか。海月らしいよ。ねぇ、
「うん、もちろん。好きなの食べて!」
「ありがとう」
すっと伸ばされる白い手を眺めながら、
生クリームと、ベリージャムをのせた白鳥のパイは、
甘いものの好きなイルミが、見逃すはずはない。
あーあ。
サクッと、いい音を立ててイルミがパイをかじる。
ジャムやクリームをこぼさないように、
「うん、おいしい」
「よかったね。昔のまんま?」
「うん。海月も食べる?」
はい、と、目の前に差し出されるクリームパイ。
「いいの!?」
「いいよ。甘いのはこれひとつしかないから、海月だって、
顔にかいてあるし、と言われ、
なのに――
「あーん」
「えっ!?」
「えっ、じゃないよ。食べないの?」
「た、食べるけど……」
「そう。じゃあ、はい。あーん」
「……」
くりっと、首をかしげつつ、丸く口を開けて「あーん」
「……あーん」
してしまう、私。
ほだされている、と、思う。
今更だけど。
「んっ!」
「おいしい?」
イルミの言葉にこくこく頷いた。
美味しい、なんて一言で表すのが勿体ないくらい。
表面が上品にキャラメリゼされたパイは甘くってカリカリでサクサ
生クリームの滑らかさと、
「おいしいの?」
「……!!」
「そう、よかった。海月は、
「……!」
“だって、仕方ないじゃない!”
と、人差し指の上に念の文字を浮かべてみせると、
「食いしん坊。唇にクリームがついてるよ」
「……っ!」
ごっくん、と、口の中のパイを飲み込んだ瞬間だった。
ソファから軽く身を起こしたイルミが、私の顎を持ち上げて――
お風呂上がりのイルミの髪からは、
唇は、男の人とは思えないくらい、柔らかくて、
すぐに離されてしまったことが、残念に思えた。
待って欲しい、って、自分から言ったくせに。
「はい、綺麗になった」
「あ、あり、がとう」
どういたしまして。
さらりと言って、身をはなすイルミは、相変わらずの無表情だ。
目や仕草にはからかいの色は全くない。
だから、いつもなら「イルミ!!」
ほっぺたが、灯をともしたように熱かった。
「真っ赤になった」
「……見ないでよぅ」
「可愛い。ねぇ、海月。なにもしないって、
大人が三、四人腰かけても、
片腕を背もたれに預け、イルミは私に向かって手まねく。
「あ、で、でも……」
「駄目?せっかく二人っきりになれたんだから、
「う……」
それは、私だってそうだ。
ゆっくり深呼吸してから、頷いて、イルミと距離を詰める。
ぴったりと、身を寄せるように腰かけると、
「ありがとう」
ささやいて、
髪をすいて。
頬に触れて、
「キスしていい?」
「……うん」
くりっと首を傾げたイルミの顔が、精鋼に作られた、
私の唇を包む温度が、愛しかった。
「イルミ――」
「ん……?」
「私、イルミが好き……」
「海月」
「イルミのこと、ちゃんと好きだから……」
「……分かってるよ。俺も好き。だから、
だから、泣かないで。
イルミは泣きじゃくる私の頭を撫で、
無茶なことを言って、我慢させてるのに。
その上で、こんなにも甘えさせてもらえるだなんて、
せっかく二人っきりになれたのに、とふてくされて、
イルミは本当に優しい。
それは、私のことが好きだからだと、彼は言ってくれた。
思えば、ハンター試験のときから、彼はずっとそうだった。
突然のキスや、条件付きのキスをのぞけば、
それが全て、彼の、彼なりの愛情表現だったから。
愛してくれていたのだ。
私が気づく、ずっと前から。
「海月……」
「ご、め……っ」
ぬぐってもぬぐっても、涙は止まらない。
しばらく、じっと私を抱きしめてくれていたイルミが、
「謝らなくていいよ。俺が、怖い?」
千切れそうなくらい、首を振る。
「そう。よかった……きっと、緊張がゆるんで疲れが出たんだよ。
そっと、耳元に囁かれる言葉に頷くと、イルミは私を抱きしめたまま軽々と持ち上げ、隣の寝室へと運んでくれた。
指に触れるシーツの感触は、鳥の羽根のようにやわらかい。
「電気、消すね」
「うん……」
パチン、とスイッチの音。
豪奢な部屋に、青い闇が落ちる。
イルミはしばらく、じっと寝台の傍らに佇んでいた。
くりっと、闇の中で彼のシルエットが首をかしげる。
「俺、ソファで休むから。安心してお休み」
「えっ!?」
「だって、一緒に寝たら、我慢できなくなって襲っちゃうかもしれないし」
昨日の夜みたいに、とイルミ。
「で、でも……」
「一緒に寝たい?」
「……うん」
頷いて、でも、また涙が滲んでくる。
「ごめん……私、イルミに我儘ばっかり言ってる」
「我儘?」
長い指が、頬に触れた。
眦から涙をすくい取って、そのまま髪を撫でてくれる。
背中に温かいものが触れていると思ったら、イルミが後ろから包み込むように抱きしめてくれていた。
膝の上においた私の手のひらに自らのものを重ね、指をからめてきつく握りしめる。
大きな手だ。
闇の中で触れていると、余計にそう思う。
長い指。
やわらかな手のひら。
生きるために人を殺すことの出来る、イルミの手。
厳しくて優しくて、冷酷で、誰よりも温かい。
私の、大好きな手だ。
「海月……」
イルミはちゅ、とリップ音を立てて、私の右手の指先に口づけた。
「我儘なんかじゃないよ。海月は俺のこと、受け入れようとしてくれてるんだからね」
「イルミ……」
「海月がいいって言ってくれるなら、ここにいるよ」
イルミは私を抱きしめたまま、ゆっくりと後ろに身を倒し、シーツにもぐりこんだ。
少しずつ、目が慣れてくる。
息のかかるような距離から、彼が囁く。
「約束する、海月が本気で嫌がることは、絶対にしない」
「それ、軍艦島でも言ってたね」
「うん。でも、今夜は嫌がるかどうか試すこともしないから、安心して」
「ほんとに?」
「ほんと。だって、あのときと違って、今の俺は海月のことが好きだってちゃんと分かってるからね。嫌がられたら、辛いよ」
淡々と、抑揚のない声でイルミは言う。
指を握りしめる手に、力がこもる。
胸が、苦しい。
「そんな、嫌がったりしないよ……!」
「本当に?」
サラリ、と冷たいものが頬を滑った。
イルミの髪だ。
仰向けになった私の顔を、覗きこんでくる。
「本当に、嫌がらない? でも、今すぐに俺とエッチするのは駄目なんでしょ?」
「――っ、そ、それは……」
「ね。だから、無理しないで」
ポンポン、と頭を撫でて、離れていく手のひらに、また瞼の裏が熱くなる。
嫌じゃない、と私は呟いた。
「嫌じゃない……嫌じゃないけど、怖い……イルミに、イルミに……もし、嫌いになられたらって思ったら、私――」
「海月?」
「わ、たし……」
「泣かないで、落ち着いて……」
ポロポロと勝手に零れ落ちていく涙に、イルミは唇を寄せた。
「――海月、俺はね、海月が思ってるよりもずっと君に執着してるんだよ? 多分、キルよりもずっとね」
「……っ!」
キルアよりも、という言葉に、目を丸くしてイルミを見る。
至近距離で見返してくる彼の目は、相変わらず何を考えているかわからない。
でも、闇の中で、わすかな月明かりに反射する漆黒の眼差しは、本当に柔らかく思えた。
「……そっか。海月は俺とするの、嫌じゃないんだ。よかった。でもさ、怖いって、何が怖いの? 絶対に嫌いになったりしないって、誓ってもいいんだよ? それでも怖い?」
「……うん」
深呼吸をして、荒れる気持ちをなんとか押し鎮める。
俺のこと、信じて。
囁いて、私を抱きしめるイルミを、覚悟をもって私は見つめた。
いつかは話さなきゃいけないことだ。
そして、今がその時なんだと思った。
「……イルミのことだから、もうとっくに気づいてるんだろうけど」
「うん」
「…………私、ちゃんと最後までしたことないの」
「そう」
よかった、とイルミ。
「よくないよ……」
「どうして? 言っておくけど、それ、俺にとっては嬉しいことだよ? 別に、恥ずかしがることじゃないと思うんだけど」
「24にもなって一度も経験がないだなんて、恥ずかしいってば……それに、イルミだって、絶対面倒くさいって感じると思うよ?」
「ない。絶対に、それはない」
抑揚のない口調で、しかし、イルミはガバっと身を起こした。
心なしか、いつもよりも真剣な表情をしている気がする。
こんなイルミは、なんだか珍しい。
「本当に? 痛すぎて、やっぱり嫌だって暴れる私に顔面を蹴っ飛ばされても?」
「蹴っ飛ばしたんだ」
「……」
あ、しまった。
と思ったけれど、遅かった。
このことまでは別に、言わなくてもよかったのに。
もそもそと、シーツの中に潜って隠れようとするのを、イルミに捉えられる。
触れるか触れないか、という優しさで両頬を手のひらで包まれ、捕まえた、と言わんばかりに、深く覗きこまれた。
「――蹴っ飛ばして、どうなったの」
「……う、ん。その後、すっごく気まずくなっちゃって……それっきり、」
「ふーん。それって、海月が前に付き合ってた奴とのことだよね?」
「……うん」
「好きだったの?」
ほんの、少しだけ。
イルミの瞳が揺らいだ。
ズキリ、と胸が痛む。
こんな話、やっぱり、しないほうがよかった。
打ち明けるだけで、こんなにも辛いのだから、聞かされるイルミは、もっと辛いだろう。
「話して」
「……尊敬してた。そのときは、好きだと思ってた」
「……」
「……でも、今から思えば、半分は憧れだったんだろうなあって――イルミ、そんな顔しないで……ごめんね、こんな話、やっぱりするべきじゃなかったよね……」
イルミは目を閉じていた。
ぎゅっと、眉間にしわを寄せて。
まるで小さな子どもが注射を我慢しているときのように。
「……イルミ」
「――はあ……、正直言って、今からでも行ってぶっ殺してやりたいくらいだけど。でも、きっとそいつは海月のいた世界の人間なんだよね」
「うん……大学のね、ゼミの教授だった。私の師匠だった人」
「今でも好き?」
「まさか」
即答すると、イルミはくりっと首を傾げた。
ほんと? とでも言うように。
「ほんとだって。そうだ、ついでだから、私がなんでこの世界に来ることになったか教えてあげようか。その人に、私の論文を盗まれちゃってね。おまけに失恋して、コンビニでビールと焼きイカ買って、浜辺でやけ酒しようと思ったら、謎の渦潮に飲み込まれちゃって、気がついたらこっちにいたの」
「……うん。やっぱりそいつ、ぶっ殺してあげる。初回限定サービスで、無料で承ってあげるね」
「イルミ……」
真面目な声で、真面目な顔をしてそんなことを言う彼が、何だか面白くて。
笑い出すと、止まらなくなってしまった。
そんな私のほっぺたを、イルミは摘んでむにーっとひっぱった。
「ひはいほ」
「笑い事じゃないよ。だって、そいつとの経験のせいで、海月が怖がって俺とエッチできないって言ってるんだから」
「う……っ、ごめん……その、痛いのはね、なんとか我慢できる……かもしれないと思えないこともないんだけど……!」
「言っておくけど。例え、無理でも、そいつと違って気まずくなるってことはないよ。俺が海月のことを呆れたり、まして、嫌いになることもない。これから先、ずっと一緒にいるんだからね……今夜が無理でも、いつか出来るようになる。キスと同じようにね」
「あ……」
イルミの唇が、降りてくる。
最初は額に、次に鼻の頭に触れて、唇に、深く口づけられた。
熱い舌の先でくすぐられ、それを合図に薄く口を開けば、キスはもっと濃密になる。
細い銀糸を引いて、唇を離すと同時に、イルミは言った。
「100点」
「……ほんとに?」
「ほんと。初めて海月から俺にキスしてくれたとき、何点だったか覚えてる?」
「…………5点」
「正解。でも、残りの95点は、なにも技術点ってわけじゃない。海月が俺のことが好きで、その気持がちゃんと伝わるキスだから、100点」
「……」
「誰としてどうだったかとか、経験なんてものどうでもいいんだ。海月が俺に抱かれるのは初めてのことだし、俺が海月を抱くのも初めてなんだから。それに、初めから最高に気持よくなんて、ならなくてもいいと思ってる。勿論、海月にはそうなって欲しいと思ってるし、努力もするけど」
「え……どうして?」
「海月とこういうことができるだけで、嬉しいから」
長い人差し指で私の髪をすくい取り、するすると毛先まですべらせる。
ガウンの胸元に、ほんのすこしだけ指先が潜り込んできた。
「……んっ、イルミ」
「死ぬほど痛かったら、俺のこと嫌いになっちゃう?」
くりっと、首を傾げる彼に、慌てて首を振る。
「ならないよ、絶対……! でも、でもさ、私、ほんとに痛いのダメで、無茶苦茶に泣いて暴れて逃げるかもしれなくて――」
「大丈夫」
無茶なことはしないから。
ちゅ、と、イルミは啄むようなキスを、首筋に落とした。
「だから、海月を俺に頂戴」
不安げに揺れる眼差しで、イルミは私をじっと見つめてくる。
早鐘を打つ心臓の真上に、彼の手のひらが置かれていた。
その手を、強く握りしめる。
「……うん」