お腹がすいた……。
お腹がすいて、力が出ないよ……。
でも、だめだ。
少しでも触手を緩めたら、せっかく捕らえた餌を逃がしてしまう。
こんな上質な餌を、逃がすわけにはいかない。
中でも美味しいのは、強化系の、強化系の……ステーキイイイイイイ!!
サーロイン、フィレ、リブロース!!
肉質は違えど、どれもこれも極上の部位ばかり。
分厚い肉塊から溢れ出す肉汁の甘さと旨味が、身体中に充ち満ちていく……!!
ステーキ、ステーキ、ステーキ!!
ステーキ……うふふふ……美味しい……美味しいよ……。
「海月」
もっと、もっと食べたい……もっともっと。
「そんなに美味しいの?」
うん……美味しいよ……食べ尽くしたい、くらいに。
「ふーん。それって、俺より美味しい?」
え……?
すうっと、喉を撫でるように。
注ぎ込まれてきた、冷たい果汁。
深く、甘美な、その果肉。
「俺より、彼奴の方が美味しい?」
***
「――っ、イルミ!?」
ぱちっと目を開くと、そこには薄暗い天井をバックに、黒髪猫目の青年がくりっと首を傾げていた。
「あ、やっと起きた。おはよう」
「おはよう……って、ここどこ?」
壁の時計は午前二時。
とても、おはようというような時間帯ではないけれど。どうやら私は、今の今まで寝台に寝かされていたらしい。
しかもこの寝台、キングサイズのふっかふか。
ベッドサイドに灯されたアンティーク調の硝子ランプに浮かび上がる部屋の景色は、豪華絢爛そのもので……けれど、どこか懐かしい。
「NGK(ノーザンクロス・グランドキグナス)ホテルだよ。そこの最上階。前にも2人で泊まっただろ?」
「へ? あ、ああそっか……どうりで見覚えが――って、あれ?」
何か、大切なことをすっぽり忘れているような。
なんだっけ?
くりっと首を傾げる私の視界の端。
緻密な織りの施されたペルシア絨毯の上を、小さな蜘蛛が横切っていった。
蜘蛛。
「ああああ―――っ!! お、おも、思い出したっ!! 幻影旅団!! イルミったらどこほっつき歩いてたの馬鹿!! イルミのいない間に私、盗賊団の団長さんと追いかけっこしたり隠れんぼしたり、大変だったんだから!!」
「へー、楽しそうじゃない」
無表情で、淡々としたイルミの言葉。
でも、
「――!」
次の瞬間、その腕の中に抱きすくめられていた。
胸板から伝わる鼓動が早い。
しっかりと肩を掴む手のひらが、燃えるように熱い――
「イ、イルミ……?」
「……ごめん」
強く、強く。
抱きしめてくる腕。
うなじにかかる吐息は浅く、声は少し震えていた。
ごめん、と繰り返し、イルミは呟いた。
「分かってたのに……あいつが海月を狙ってくることは、予想がついていたのに……」
「イルミ……もしかして、ジャポンで一緒にお酒を飲んだ相手ってクロロ団長さんだったの?」
「……」
ピクリ、と僅かに彼の肩が動いた。
返事の代わりには充分すぎる。
「で、でもでも、なんで私が狙われるの? 幻影旅団っていったら盗賊団でしょ? 私、盗賊に狙われるようなお宝なんて持ってないよ?」
「俺のせいだよ」
ぎゅっと、私の身体を抱きしめたままでイルミは言う。
「俺が殺し屋だから……ゾルディックだから……それで、海月を巻き込んだ」
「イルミ……」
「ジャポンでクロロに会ったとき、あいつはすでに俺の婚約について情報を掴んでいたんだ……柄にもなく動揺して、上手く誤魔化しきれなかった」
海月、と名前を呼ばれる。
薄暗い闇の中、イルミはまっすぐに私の目を見つめてきた。
「物じゃない。クロロが狙っているのは海月そのものだ」
「わわ、私!?」
「そう。クロロは、他人が大切にしているものを欲しがるからね。それに、珍しい念能力にも目がない――以前、親父に教えられたことがあるんだ。あいつは、他人の能力をも盗む」
「――っ!」
やっぱりだ……やっぱり、クロロの狙いは私の念能力なんだ。
だから彼は、仲間にも殺せと命令しなかった。
あんなまどろっこしい追い詰め方をしてまで、私を捕らえようとしたんだ。
「ごめん……ごめんね、海月……本当は、あんな奴に会わせたくなんてなかったのに」
「イルミ、だ、大丈夫だよ。私、逃げるのだけは得意だし、今回もなんとかなったみたいだし……あんまり覚えてないけど」
「……なってないよ?」
「え……、――っ!?」
闇の中。
まっすぐに、私の目を見つめているイルミの目。
イルミの目がああああああああああああ!!!
「へっ!? な、何!? なんとかなってないって、もしかして私、またなんかやらかした!?」
「それはもう盛大にね。天空闘技場で、母さんと戦った時に使ったあの物騒な能力。自己の細胞からオーラを奪い、枯渇させることで触手の捕食能力を極限まで高める力……自己の制御の効かない捨て身技。あんな戦い方は二度とするなって、家に帰ってから散々教え込んだよね……その身体に」
「う……っ!」
「あの時は、相手が母さん一人だったから大した反動がなくてすんだんだよ。複数の、しかも全員が腕のある念能力者を9人一度に捕まえるなんてさ。無理に決まってるじゃない。それなのに、どうして性懲りもなく使ったの……?」
イルミの手のひらが伸びてくる。
いつもならば、そっと頬に触れられるはずのそれが、喉首にかかる。
ごめんなさい――そう、反射的に言いかけて、私はその言葉をぐっと飲み込んだ。
謝る事なんてなにもない。
あの場で生き残るために、成すべき事をなしただけだ。
「私だって、あれから色々試行錯誤したんだよ? 私のオーラが完全に枯渇しないように、吸収するオーラとのバランスをとれるように工夫したり、獲物がどんな暴れ方をしても捕獲し続けられるように、柔軟性と対応力を増したりね――実戦の中で」
「負けるとは思わなかったの? 賞賛するわけじゃないけど、あいつは――あいつらは強いよ」
ぐっと、喉を掴む手に力が込められる。
闇の底を覗くようなイルミの瞳をまっすぐに見つめたままで、私はにっこり笑ってやった。
「海の中なら、誰にも負けないよ? どんな生き物が相手でもね」
「……」
「海洋生物ハンターの名にかけて、必ず、仕留めてみせる」
「……はあ」
はあ――……っと、イルミの唇から深くて長いため息が漏れた。
部屋に充満していた重苦しい殺気も、嘘のように消えていく。
ぽすっと、私の肩口に頭を乗っけて、イルミはしばらくの間、無言でいた。
ややあって、
「海月」
「なに?」
「お願いがあるんだ」
「お願い?」
「そう。絶対に聞き入れて欲しいお願い……」
ペロリ、と。
熱い舌が私の耳朶を舐め上げる。
「ひゃあああっ! み、耳は弱いんだってば!!」
「知ってるよ? それでね、海月には……朝一番の飛行船でここを発って欲しいんだ」
ペロッ。
「ひゃあああああああああう!! って、え、ええっ!? ここを発てって、そんなことしたらオークションに参加できなくなっちゃうじゃない!」
「大丈夫……海月の欲しい物は全て手に入れてあげる。オークションの映像も、見たいなら
ライブで観られるよう手配する。だから……ね?」
フウ……ッ!
「いやあああああああああああ!! だめー! だめー! 耳に息はだめええええええええええええええええええ!!」
「お願い……ねぇ、海月……俺、二度とクロロを海月に会わせたくないんだよ……オークションの様子を見ながら、2人っきりでゆっくりステーキでも食べようよ……」
「むぐ……っ! ス、ステーキ……」
イルミは本気である。
本気で私を落としにかかってきている。
その身で築いてきた財力と、その身に宿る色香の全てをもって!!
「ちょーっと待ったストーップ!! この前、ラブハリケーンアイライドで約束したところじゃない! 色仕掛け禁止!! ハニートラップでしかターゲットを落とせない三流の暗殺者になんかならないんじゃなかったの!?」
「それを違えるつもりはないけど、海月相手なら話は別だよ? 今の俺は暗殺者じゃないし、セーフだよ」
「アウトだよ!! 色んな意味でアウトだよ!!」
「まあまあ、堅いこと言わずに……大人しく俺に墜とされてよ、海月」
シュル、と、イルミの手が彼のシャツにかかる。
「脱がないで――!! そそ、そんなことしたって駄目だから! この前の南の島でのバカンスもあんなことになっちゃったし、私、このオークションにイルミと来るのを本当に楽しみにしてて――」
「……わかってる」
わかってるよ、と、イルミは私の額にキスをする。
ゆっくりと髪をすき、頭を撫でてくれる手のひら。
伝わってくるのは、さっきまでの作為的な感情とは全く異なるものだった。
二度目のキスは、唇に。
「……んっ」
「……」
そっと、優しく。
私の心にある反発心も、懐疑心も、なにもかもを包み込んで、溶かしてしまうような口づけだった。
伝わってくるのは、ただただ謝罪の意。
なんだか懐かしい……そうだ、あの時。ハンター試験で、溺れた私をイルミが解放してくれたあのときにしたキスと、とてもよく似ているんだ。
彼もそのことを思い出しているのかも知れない。
きっかり一分。
ほんの少しだけ、名残惜しそうな余韻を残して、イルミの唇は離れていった。
ぴしっと、その鼻っ柱に人差し指を突きつける。
「95点!」
「……なに、そのケアレスミス」
心外だな-、とイルミ。
「贅沢言わないの! 不満が全くないわけじゃないんだから! っていうか、不満だらけなんだから! 元はといえば、イルミがジャポンでクロロ団長さんを上手いことあしらえていれば、こんな事にはならなかったんでしょうが。マイナス五点だけですんだだけ、有り難いと思いなさいよ! 自分なんて私のキスに五点って言ったくせに!!」
「あれは海月が悪いよ? ……俺のお願い、きいてくれるの」
「それでイルミが安心するなら、いいよ。このまま私が無理を通してヨークシンに残っても、イルミはオークションどころじゃなくなっちゃうでしょ……」
もう一度、クロロ団長と鉢合わせした日には、その場で殺し合いになりそうなのが目に見えてるし。
まあ……残念なことには変わりないけど。
「……海月!」
「むぎゅっ!? イ、イルミ、苦しいってば……! イルミ?」
グスッと、濡れた音。
私を抱きしめる腕が、はっきりと分かるくらいに震えている。
「泣いてるの……? あのねえ、大げさだよ。私だって子供じゃないんだから、無理なことか、そうでなことかくらい分かるってば」
「……だって、今回のことは本当に、俺のミスだから。俺がクロロに余計なことを勘づかせたから、海月を危険な目にも遭わせちゃった……あと少し遅かったら、意識を失った海月がどうなってたか分からな――」
「触手チョップ! 男の子がいつまでもうじうじしなーい!! 大丈夫だって。海の中にいる
私が負けるわけないでしょ。それに、イルミが私を助けに来ないなんてこともないじゃない。だから、大丈夫。なんとかなるよ!」
「海月……」
「イルミ。今回はお願いを聞いてあげるけど、その代わり、私が欲しい物は全部競り落としてもらうからね。約束!」
「……うん、わかった。あとついでに、もう一つ俺のお願い、きいてくれる……?」
こーっくりと頷いて、イルミはそのまま、私の身体を寝台に縫いつけた。
「……へ? へ??」
「会えなかった分の寂しさと、海月が目覚める間、ずっと待ってた俺の不安。海月の身体で埋めて欲しいんだけど」
「はい――――っ!?」
無理だからあああああああ――――っ!!
草木も眠る丑三つ時。
ヨークシンシティー郊外、広大な敷地面積を誇る湖上の城、NGKホテル最上階のプラチナムロイヤルウィートルームにて、不釣り合いな私の悲鳴がいつまでもこだましていた。