車が公道を走り出してすぐに、フェイタンさんが私に目隠しをした。
そこから先は誰もが無言。
こちらの車には運転席にフィンクスさん。助手席にシャルナーク。
私の左右を挟むように、フェイタンさんとマチさんが座っているけれど、私語雑談はおろか簡単な会話すら一切する様子がない。
私に余計な情報を握らせないため……だろうか。
意図的に、そうしているのだろうと思った。
視界が布で塞がれているために、車が今どこを走っているのか検討がつかない。
車体の防音性能も高いらしく、外からの音はもちろん、エンジン音さえもろくに聞こえない。
まあ、聞こえたところで、走行時間とエンジンの回転数から走行距離を割り出すなんて神業、できないんだけど。
イルミになら、できるのかな。
役に立ちそうだし、今度、教えて貰おうかな。
また……会えたら。
イルミ……。
今回のことで、また自分を責めたりしないといいけれど、と思う。
昨日だって、あんなに謝らなくったってよかったのに。
何もかも、全部自分が悪いって自責して。
自分が殺し屋だから、ゾルディックだから、私を巻き込んでしまったんだって……。
そんなこと、何にも気にしなくていいのになぁ。
私だって、ちゃんと覚悟してきたことなんだから。
それでも、イルミがいいって言ってるんだから。
全部分かってて、全部受け止めて、全部乗り越えるって決めたから、
あの南の島での花嫁選抜戦に参加したのに。
本当に……わかってないよね、イルミは。
私がどんな気持ちであなたに嫁ごうとしているのか、ちっともわかってない。
「――着いたよ。降りるね」
冷たい声とともに、目隠しが外される。
車を降ろされた場所は、倒壊した廃ビルが折り重なるように連なった無人街だった。
漫画やアニメで見たまんまだ……ゴンとキルアが連れられてきた、ヨークシンでの蜘蛛の借宿。
吹きすさぶ風が砂埃を巻き上げ、ひび割れたアスファルトの上を舞っていく。
そこに佇む黒服姿の蜘蛛の団員達は、もう、なんとも言えないくらいに格好良くて。
怖くてたまらないはずなのに、つい見入ってしまっていた。
グイ、と後ろ手に縛られた腕が、乱暴に引かれる。
「さっさと歩きな。こっちだよ」
「あ、は、はい……」
一行は私を連れて、とあるビルから地下へ繋がる階段へと歩を進めた。
先の見えない、闇の中へと下っていく。
前にマチさん。後ろにフェイタンさん。
さらに、その後ろをウボォーギン、フィンクス、パクノダさんが固めている。
私のすぐ横にはシャルナーク。
強引に念糸をひっぱられるたびに、階段を踏み外しそうになる私を支えてくれてはいるけれど……逃げようとした瞬間、その手のひらは手刀となって私の意識を奪うのだろう。
状況は絶望的だ。
強敵に囲まれている上、昨日無理をしたせいで身体が思うように動かない。
オーラも充分に回復してはいない。
姿を消して逃れたところで、蜘蛛はどこまでも追ってくる。
必ず、捕まる。
ならもう、逃げようとは思うまい。
なによりも、生き残ることを第一に考えるんだ。
でも、そのためには……そのために、私は一体何をすればいいのだろう。
闇の中で、心臓の音だけが早鐘のように鳴っている。
長い階段が終わり、金属製の扉が開かれる音が重々しく響いた。
「――連れてきたよ、団長」
ご苦労、と静かな返事。
通されたのは、地下の一室だった。
広々とした床には瓦礫が折り重なり、天井は倒壊して抜け落ちている。
吹き抜けになった高い場所の窓から幾筋か光が射しているものの、底へは届かない。
暗闇の中に、他の団員達の姿がある。
昨日はいなかったフランクリンさんと、ボノレノフさんも同席していた。
ヒソカさんは……いないみたい。
部屋には燭台が数本置かれており、クロロはその中心に座っていた。
「……!」
ファー付きの黒いコート。
手には書物。
髪型はオールバックで、額には逆十字のタトゥー……!!
クロロ団長だ。
本物のクロロ・ルシルフル!!
いや、昨日街で会ったのだって本物には違いないんだろうけど……ううん、やっぱりこの格好は違うよ!!
あああああああああああこんな状況じゃなかったら、握手してもらってサインしてもらって、ついでに一緒に写真撮ってもらうのにいいいいいい!!
惜しい!!
興奮のあまり、ちょっとだけ乱れてしまったオーラに反応したのだろう。
背後のフェイタンさんから、すかさず殺気が飛んできた。
「妙な真似するんじゃないね……女!」
「い……ッ!」
ギリリ、と捻り上げられた腕が痛い。
い、いつもなら楽に軟体化できるのに……。
そういえば、さっきから身体に妙な違和感を感じている。念の泡が普段通りに発動しないのは、おそらく昨日、かなりむちゃくちゃな力の使い方をしてしまったからだ。
体内に常存する念の泡のバクテリア数が、絶対的に少ないのだ。
新たな泡を生み出そうにも、それらを維持するためのオーラが足りない……だから、生命維持に直結しない程度の攻撃に関しては力がセーブされている。
何故か――その理由は至極あっさりと思いつくことが出来た。
ごはんだ。
ごはんが足りないんだ。
考えてみれば、昨日の昼ご飯以降、何も口にしていないではないか。
「そこに座れ」
読んでいた本を綴じ、クロロは目線で目の前の椅子を示した。
マチさんの念糸に拘束されたまま、すとんと腰を下ろす。
少しでも抵抗すれば最後、隣のフェイタンさんが爪でも皮でもバリバリに剥がしてきそうな気がして怖い。
もう、本当に怖い……!
じわりと滲む涙を拭うこともできずに、ただただ怯えることしか出来ない私を、クロロ団長は黒目がちな双眸をじっと張り詰めて見つめてくる。
なんだかもう、お腹を空かせたサメそっくりの目だ。
その表情からは、全くといっていいほど感情が読み取れない。
「……フッ」
ふいに、何の前触れもなく、彼の唇から笑みが零れる。
意地悪そうに、口の端をにやりとつり上げたまま、クロロ団長はゆったりと足を組み直した。
「ずいぶんと、扇情的な格好だな? 昨夜はよほどイルミに可愛がられたと見える」
「……っ!?」
言うんだ……! この人、そういうことさらっと言っちゃうんだ……!!
なんて答えたらいいか分からずに、真っ赤になって口をぱくつかせていると、ごめんね、とシャルナークさん。
「着替えさせてあげてる時間がなさそうだったんで、起き抜けをそのままかっさらって来ちゃったんだ」
「時間がなかった、とは?」
「この子、朝一番の飛行船でヨークシンを発つ予定だったんだってさ。勘の良い殺し屋の旦那様の指示で、俺達が次に襲撃する前に逃亡する手筈だったらしい。さっき車内で確認したんだけど、チケットはこの子の分しかとれていなかった。迎えの連中が来る前に、部屋をはなれないと騒ぎになると思ったんだけど」
誰かさん達が派手にドアや窓を壊しちゃったし、と笑顔でシャルナークさん。
「そうか……イルミはどうした?」
「急なお仕事、だってさ。フェイタンが軽~く身体に聞いたから、嘘は言ってないと思うんだけど……でも、イルミ・ゾルディックが誘拐に気づくのも時間の問題かもね」
ほう、とクロロ団長は思案気に頷いた。
「なるほど。だが、問題ない。こちらもさっさと用件を済ませてしまえばいいだけの話だ」
言い捨てて、立ちあがる。
その左手に、禍々しいオーラが集結していた。
イルミのものとも、ヒソカのものとも違う。
もっと、もっと異質な……これまで目にした、どんな生き物のものとも違う、得体の知れないオーラの集合体。
それは、ある瞬間に一冊の本となって現れた。
――『盗賊の極意(スキルハンター)』。
驚愕と、これから行われる事への恐怖に思考が停止しそうになる。
そんな私を見降ろしながら、クロロ団長は楽しげな口調で尋ねてきた。
「ほう……その様子では、俺の能力を知っているようだな。イルミが入れ知恵したか?」
「……っ」
「答えろ」
間髪入れず、傍らのフェイタンさんが示し合わせたかのようなタイミングで、私の左小指に手をかける。
無言の殺気はすさまじく、ちりちりと肌が焦がされるようだと思った。
喉から絞り出した声は、酷く掠れていた。
「他人の……能力を盗む能力者だと、聞いています」
「少し違うな。正確には、『他人の能力を奪う』能力だ。俺は、盗賊だからな」
「……」
「俺はお前の持つ能力に興味がある。昨日、俺達をあわや全滅の危機に陥らせた、あの念の触手だ。あれが欲しい」
欲しい、と言われましても……。
まるで子供のように、純朴に欲望を口にするこの人に、内心で嘆息する。
クロロ団長が他人から能力を奪うためには、確か、いくつかの制約があったはずだ。
一つは、相手の能力を見ること――この条件は、昨日広場で戦った時にクリアしているはず。
あとは……相手から直接、念についての情報を得なきゃいけなかったような。
そうか、これは、そのための拷問か。
「あの念の触手は、一体どんな能力だ? 発動させるための制約と誓約についても全て答えてもらおう」
……っ、フェイタンさんの爪が、私の小指の爪の舌にじわじわ潜り込んでくる。
痛い……っ、そう言えば、一気に剥がすよりもわざとゆっくり剥がす方が、より痛覚が刺激されて過敏になるから効果的なんだって、イルミが言ってた!
感覚が分散されると痛覚も分散されるから、やるときは1カ所を徹底的に責めた方がいいって!
いらないよそんな情報!! 知ってるせいでよけいに怖いんですけど……!!
うう……っ、どうしよう。
迷っている間にも、拷問者からの圧力は増すばかりだ。
ええい、こうなったら仕方が無い。
例え触手を失っても、防御の泡さえあればなんとか乗り切れるはずだ。
どうせ力尽くで聞き出されるなら、少しでもダメージが少ないように……!
「ね、念の触手は……オーラを触手状に形成して、それを動かす能力です。名前は、『見えない助手達(インビシブル・テンタクル)』。対象からオーラを吸い取るには、私自身が空腹であったり、オーラが枯渇している必要がある……みたいです」
「ふぅん……」
あ……なんだか訝しげな顔。
ちゃんと答えたのに、フェイタンさんの手も全く緩まないし……何故?
……あ、そうだ。そう言えば、訓練中にシルバさんに言われたことがある!
必要によっては敵に情報を与えることも大事だけど、あんまりスラスラ答えると信憑性を疑われて、本当のことを言っているのに信じてもらえず、余計に痛めつけられる場合があるから頑張って演技しろって!
いやああああああ失敗した!!
これは確実に疑われてる!!
「怪しいな」
「脈拍からは、嘘を言てる様子はないね。だが、いくらなんでも素直すぎる。団長、油断しない方がいいよ」
や、やっぱり……?
でも、わざと爪を剥がされるのだって嫌だし……痛いし。
こんな時、イルミだったらもっと上手く立ち振る舞うんだろうな……。
イルミ……。
イルミ……怖いよ。
お願いだから、早く助けに来て……!
「し、仕方ないじゃないですか……プロの殺し屋さんじゃあるまいし、訓練ならまだしも、本物の拷問なんてうけるの、初めてなんですから……! どう答えたら信じてもらえるかなんて、分からないですよ……」
クロロ団長とフェイタンさん。蜘蛛のナンバー1,2の両方に疑いの目を向けられるプレッシャーに耐えきれず、ついうっかりと口を開いてしまう私。
10点減点、と、頭の中でイルミの冷たい声が響いた。
ガシッと、私を掴むフェイタンさんの手に力がこもる。
「この後に及んで、下手な嘘をつくんじゃないね! 指の二、三本へし折っても、能力を奪うのに何も差し障りないよ……!!」
「いだだだだだだだだだ痛い痛い痛い痛い痛いっ!!!」
どんだけ的確に人体の痛覚を把握してるの、この人……!!
私の小指を、一番痛い方向にへし曲げようとしてくる!
「ううう嘘なんてついてないですよーっ!!」
「……ほう、なら、お前の身体にじっくり聞いてみようかね?」
いやああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
拷問王子の甘い囁きを、しかし、この人があっさりと断ち切った……!
「待て、フェイタン」
「……チッ!」
……チッ! じゃないですよもう!!
ああ、痛かった怖かった……!!
クロロ団長、止めてくれて本当にありがとうございました……って言っていいかは、まだわからないけれど。
肩で息をつきながら涙目で見上げる私を、クロロ団長は相変わらず、何の感情も浮かばない表情で見下ろしてくる。
「殺し屋ではない、と言ったか。それは偽りではないと?」
「そ、そうですよ。私は、深海専門の海洋生物学者です」
きっぱりと答えてやると、クロロ団長はふむ、というように口元に指を当てた。
そして、おもむろに命じる。
「パクノダ、あれを」
「はい、団長」
実にスムーズに、背後に控えていたパクノダさんが持ってきた物……それは、見覚えのある紙袋だった。
そうだ、昨日、イルミと一緒に入ったあの服屋さんのだ。
それが、どうして蜘蛛の手に……?
内心で首を傾げる私の目の前で、クロロ団長は紙袋に手を突っ込み、中身を引きずり出した。
紺色のセーラー服に、膝丈のロングブーツ。
「私の作業着……? どうしてクロロさんがこれを」
「昨日、カフェにお前が忘れていった物だ。この服もそうだが、一緒に面白い物が入っていたぞ」
にやり、と悪い笑み。
次の瞬間、私の心臓が凍り付いた。
「ベンズナイフ……形状から見て、中期のものだな。この独特の柄と刃先には、あらゆる毒を仕込むことができるよう細工されている。これも、お前の物か?」
……。
……イルミ、どうしよう。
なんか上手い具合に本編と繋がっちゃったんですけど……!!
カチン、と固まっていたら、左小指に激痛が走った。
「痛あ――――いッ!!」
「……チッ、ワタシとしたことが指が滑てしまたね。ボッキリ折てやろうと思たのに、しくじたよ」
ううっ!
ギリギリの所で念の泡が反応してくれたんだ……でも、ちょっとひねっちゃったのか痛いよう。
小指を気にしていたら、冷たい刃先に顎を持ち上げられた。
「質問の答えは?」
「そ、それは港の蚤の市で買ったんです……! イルミのお父さんがベンズナイフのコレクターなので、お土産にしようと思って……!」
「なるほど。そう来るか。では、この服は何だ? 素人目にはわかりにくいが、これは特殊な作り方が施された暗殺服だ。光を反射せず、音も生地に吸収される。証拠となる繊維も抜け落ちず、血液もこびりつきにくい……専門の職人が作った一級品だな。流石、ゾルディックの嫁といったところか」
「そそ、その服は、確かにゾルディック家おかかえの職人さんに作ってもらったものですけど、水陸兼用の私の作業着です。それが証拠に、生地に使用している皮は深海6000メートル以深にしか生息していない鮫の皮ですし。暗殺服だと海水に劣化しにくいし、動きやすいし、乾きやすいし、洗いやすいし、潜水艦で過ごすことの多い深海生活にはピッタリなんですよ……!」
フン、と鼻で嗤ったのはフェイタンさんだ。
「暗殺服をそんなものに使う馬鹿がどこにいるね」
ここにいますけど……!?
しかも、うちの生徒達にも同じ材質で作った活動服を支給していますけど何か……?
私の必死の言葉にも、クロロ団長の表情は揺るがない。イルミのものとはまた違った意味で、この人も無表情だ。
嘲笑したり、普通に笑ったり、驚いたり、呆れたり、しているように見えるけれど。
いつだって、心が動いていない。
原作で、センリツさんが言っていたクロロ団長の印象――自分が殺されそうになっていても、何も感じない。それが、日常になっているから。
他人が目の前で殺されても。
自分が誰かを殺しても。
きっと、何も感じない――どうでもいいのだ。
クロロ・ルシルフル。
史上最悪の盗賊団、幻影旅団を束ねる頭はこういう人なのだと。
心底思い知った。
まあいい、とクロロ団長。
「お前が殺し屋でも、そうでなくとも関係ない。能力を奪うことに関しては、な」
「――っ!」
ナイフの刃先が下に逸れ、プツッと糸が切れる音とともに右手が自由になる。
それを、クロロ団長の手が掴み、問答無用の強引さで、本の拍子に押し当てようとする。
手形にぴったりと、私の右手が重なった――その瞬間。
「テンタ君……!!」
無数の触手が、私の身体から吹きだした。