「……もう、朝か」
ごろり、と寝台に横になったまま、どのくらいの時間ぼうっとしていたんだろう。
キングサイズの寝台は、一人で寝るには広すぎる。
部屋の中にイルミの姿はなく、存在どころか、彼のいた痕跡すらなかった。
カーテンの向こうは、今日も良い天気なのだろう。
明るい朝の日差しに、生地に織り込まれた白鳥の姿が透けて見える。
ぼんやりとそれを眺めながら、数時間前――なんだかもう、頭の中どころか身体中がどろどろに溶けてしまいそうなセックスの合間に、イルミが囁いていた言葉を思い出した。
『海月……俺、海月に謝らないといけないことがあるんだ。再び幻影旅団の奴らが、本気で海月のことを狙いに来たときに備えて、父さんと爺ちゃんと取引きした……だから、仕事に行かなくちゃいけなくなっちゃった。終わったら、即行で海月のもとに駆けつける。オークションには、必ず間に合わせるから』
一緒にヨークシンを発てなくてごめん。
「……ほんとに、何でも自分一人で決めちゃうんだから」
少しくらい、私に相談してくれたってよかったのに、と独りごちる。
あんな顔で、あんなキスをされてしまったらもう、どんな文句だって忘れてしまうじゃないか。
色仕掛けは禁止だってあれほど言ったのに。
「帰ってきたら、きっちり文句言わないと気が済まないよ! 全く……」
まあ、なんにせよ。
これ以上ここに寝っ転がっていても仕方が無いので、重たい身体を持ち上げて、身支度を調えることにする。
イルミ曰く、本当は夜の内に発ちたかったのだけれど、いかんせん、オークションの前で空港がごったがえ、私用船使用の許可が下りなかったそうだ。
ようやくとれた切符が、今日の朝のジャポン行きの航空券。
あれだけジャポンは駄目だと言っていたくせに……まあ、その原因であるクロロ団長がヨークシンにいるのだから、ジャポンに行ってはいけない理由自体がなくなっちゃったわけだけど。
……ヨークシン編、見られないのかぁ。
せっかくトリップしてきたっていうのに……蜘蛛とクラピカの因縁の対決をこの目で見られないどころか、彼の手伝いすら出来ないだなんて。
ああ、やっぱり、あんな約束するんじゃなかった。
私がいたところで、本編の何が変わるわけでもないんだろうけど……でも、こんな、逃げ出すような真似はしたくなかったよ。
さきの花嫁候補戦で、クラピカは自分の立場も顧みずに、私を助けに来てくれたっていうのに。
私は……自分のことばっかりだ。
「クラピカ……レオリオ、キルア、ゴン。私……やっぱり、部外者なのかな」
この物語の一員には、なれないんだろうか。
じわりと滲んだ涙を誤魔化すように、冷たい水で顔を洗って。
ぼさぼさになった髪を梳かし終えたところで、部屋のチャイムが鳴った。
「もう、迎えの人が来ちゃったのかな。着替え、どうしよう……」
今着ている薄い下着だけじゃ、とてもじゃないけど外へは出られない。
昨日着ていたワンピースは、多分、イルミがクリーニングにでも出してしまったんだろう。
部屋の中には衣類らしい衣類が見当たらない。
焦っていたら、もう一度チャイムが鳴った。
「どうしよう。これじゃ人前に出られないし……そ、そうだ!」
バスルームを開けると、あったあったバスローブ!
とりあえずこれを着て、迎えの人にちゃんとした着替えを用意して貰おう。
よしっとばかりに腰紐をきゅっと結んだ私は、
「はーい、今開けますねー!」
何の疑いも警戒心もなく、部屋の扉を開いてしまった。
「……」
そして、その向こうに静かに佇んでいた黒服の殺し屋さんと腹黒金髪青年の姿に、僅かに残っていた眠気が木っ端微塵に吹き飛んだのである。
「早上好。昨夜はよく眠れたかね?」
「お迎えに来ましたよ、お姫様」
閉める!!
ついでにしっかり鍵も閉める……!!
ぎゃあああああああああああああああああああああああ――――っ!!!
黒服姿のフェイタンさんとシャルナークさんがあああああ――――っ!!!
なんて格好いい……なんて鼻血垂らしてる場合じゃないよ!
イルミの馬鹿!! 薄情者!!
仕事になんて行かないで、私のことが心配なら、お願いだからこれからは肌身離れず一緒にいて下さい!!
と、とにかくここから逃げなきゃ、隠れなきゃ!!
そう思って、バルコニーに繋がる窓のカーテンを開け放ったら、今度は――
「おっと、逃がさねぇよ。嬢ちゃん」
黒服&サラサラストレートのノブナガさんが……!!
しかも、その向こうには殺気ムンムンのマチさんまで……!
そして、メキメキと木の軋む音に目をやると、さっきフェイタンさん達が立っていたドアを紙のように破り抜いて、黒服銀髪の大男、ウボォーギンが部屋に侵入してくる所だった。
窓硝子を割って、ノブナガさん達も入ってくる。
ぜ、絶対絶命のピンチというやつだ……。
どうしよう。
どうしたらいい。
フェイタン、シャルナーク、ウボォーギン、ノブナガ、マチという蜘蛛の精鋭五名を前に、ただただ青くなって震えるしかない私。
そんな私を眺めつつ、シャルナークはどこか楽しげに携帯を耳に当てた。
「捕まえたよ、団長。といっても、まだ大人しくついてきてくれると決まったわけじゃないけどね。……分かってる、殺さないよ。うん、じゃあ、また後で」
ピッと、慣れた様子で通話を切って、
「改めまして、おはよう。ポーちゃん。突然だけど、俺達と一緒に来てくれないかな? 昨日の一件で、うちの団長がえらく君を気に入っちゃってさー。まあ、無事で返すとは約束できないんだけど」
にこにこ笑いながら言う台詞じゃないと思うんだけど……いや、違う。
この人、笑ってるようで全然笑ってないんだ。
ゾルディック家での訓練のおかげで、そういう人が表情でつく嘘もちゃんと見破れるようになってきたんだもん。
漫画やアニメだとちょっと腹黒いお兄さんって感じの人だけど、とんでもない。
怖い……この人、ヒソカさんよりよっぽど怖い。
「妙な真似すると、手足無くなるよ。女」
「――っ!」
まるで影のように、いつの間にか背後に回り込まれていた。
冷たい手のひらが私の腕を掴んで、大した力もかけずにひねり上げ、同時に膝をつかせる。
すごい……人間の関節や筋肉の動きを、どれだけ完璧に分かっているんだろう。
後ろ手に拘束された腕が、指先一本動かせない。
驚愕に目を開く私の前に、マチさんが進み出た。
「フェイタン、そのまま抑えてて。今度こそ、逃がさないよ……!」
指先から紡がれるオーラの糸、念糸。
恐ろしいほどに緻密に練られたその糸で拘束されれば、強化系のゴンでさえ引き千切ることはできなかった。
実際に体験してみて、その強度に愕然とする。
ここにいる一人として、私の適う相手ではない。
なのに……昨日の私はどうしてあんなに強気だったのだろう。
奢っていたのだろうか。
海の中なら、負けはしないと。
馬鹿だ……陸の上ではこんなにも無力なのに。
フェイタンさんに押さえ込まれ、マチさんの念糸にされるがままに拘束される私の顎を、ぐい、と太い指が持ち上げた。
ウボォーさんだ……!
「なんだよ、今日は随分と大人しいじゃねぇか。昨日の威勢はどこにいったんだよ?」
「油断すんなよ、ウボォー。また喰われても知らねぇぜ?」
「うるせえ、ノブナガ! お前だって力を吸われてぶっ倒れてただろーがよ!!」
「ついさっき目ぇ覚ましたお前ぇに言われたかねーよ馬鹿!!」
「んだとぉ……?」
「はいはい、ストーップ! 喧嘩してる場合じゃないだろ、お二人さん!」
「団員同士のマジギレは禁止だろ。さっさとこの女を連れて、アジトに帰るよ」
念糸を引かれ、促されるままに立ちあがる。
どうしよう……本当にどうしよう。
見回した限りでは携帯も見つからない。
そういえば、昨日買って貰ったポーチに入れたままになっていた。
あのポーチ、どこへやったんだっけ。
駄目だ……昨日のことは、広場に追い詰められてから、ぷっつり途絶えてる。
なんにせよ、イルミと今すぐに連絡をとることは難しい。
また、近くに海辺のないこの状況では、五人もの団員達を相手に逃げることはおろか、戦うことなど皆無。
今、この状況を生き延びるためには……彼等に従うしか道はない。
『焦らず機会を待て』
頭の中で、そんなイルミの言葉が聞こえた気がした。
「本当に大人しいね……何か企んでいるのかな?」
ひょい、と顔を覗き込んでくるシャルナーク。
流石、切れ者だ。
「た……企むもなにも……ただ、昨日無茶な力の使い方をしてしまったので、戦っても適わないだろうと思って……」
「いさぎいいね。流石、ゾルディックに嫁ごうってだけのことはある。それで、君の旦那様はどこに隠れてるの?」
「イルミは……仕事に行っちゃいました。断れない依頼だからって――痛っ!」
ギリッ、と、関節が無理な位置に押し曲げられる。
フェイタンさんだ……!
「嘘じゃ、ないです……彼は仕事があるので、私だけ先にヨークシンを離れるように言われていて……っ、飛行船の、ジャポン往きの航空券を調べてもらったら分かります。チケットは、私一人分しか取っていないはずだから……!」
敵に尋問されたときは、答えの真偽に関わらず、相手が納得するだけの情報を添えて答えましょう。
イルミの暗殺教室より……。
っていうか私、今まさにあのフェイタンさんに拷問されてる……!?
怖すぎて振り向けないのが残念だけど、心臓が凍り付きそうなほどに鋭い視線がビシバシ刺さってきてるよ……!
うわああああああ!! これが本番じゃなく訓練だったら、わざと答えずにちょっと痛い目に遭っちゃったりもしてみるのに!
惜しい!
そんな余裕がないのが惜しい!!
「……嘘は言てないようね。増援が来る前にズラかるよ」
「OK。じゃ、全員撤収!」
こくり、と頷く一同。
手筈通り、と言わんばかりに、ウボォーさんが拘束されたままの私の身体を担ぎ上げ、窓からホテルの外へ。
あらかじめ、示し合わせていたのだろう。二台連なってやってきた黒塗りの車に乗り込んで、蜘蛛はスムーズに現場をあとにする。
一方はパクノダさん。
こちらの車の運転手は……フィンクスさんだった。
「妙な真似しやがったら、首の骨へし折んぞ女!」
あうう……! 怖い……!!
この状況でそんな無謀な真似、しませんよ全く……!
どうか、イルミが早く仕事を終えて、私の危機に気づいてくれますように。
または、本当に迎えに来た人達から速やかにイルミに連絡がいきますように……!
昨日の今日だ。勘の良い彼なら必ず気がついてくれる。
そして、私の居場所をつきとめ、助けに来てくれる。
だから、そのために私がするべき事はたった一つ。
――それまで、無事に生き残ることだ。
車の後部座席で身体を堅くしながら、私は、そのことだけを考えた。