「あ……れ?」
ミャーミャー、ウミネコが鳴いている。
部屋を吹き抜ける潮風。
窓硝子を染める快晴の青空。
「生きてた。はあ~~よかった!!」
「よくないよ」
「ぎゃあっ!!?」
ボソリ、と呟かれた声に、心臓が止まりそうになった。
「……なに?ひとを化け物みたいに」
振り向けばイルミ。
一つのベッドに二人……しかも私は下着にキャミソール一枚、後ろから密着して抱きしめられる格好でって、なんだこれ……。
なんだこれ!!!??
「イイイイルミさん、いつからそこにっ!?」
「いつって、昨日からずっといたけど。どっかのできの悪いわからず屋の弟子が、嵐の海に飛び込んで溺れて低体温症になって担ぎ込まれてくるもんだから、こうして一晩中温めてあげてたんだけど、不満……?」
「大変申し訳ございませんでした!!」
そうだ……そうだ、そうだよ。
だんだん思い出してきた!
私ってば、勢いいさんで嵐の海に飛び込んで、ゴンとレオリオを救出したはよかったんだけど、後半になってオーラが尽きて、気を失ってしまったんだ。
波に流される寸前、ヒソカさんの声を聞いた気がする。
あとでお礼言っとかないとな……そんなことを考えながら、起き上がろうとした――そのときだ。
「キス三回」
「へ!?」
「言ったよね。今度危ない真似したり、敬語使ったらさせるって。ポー、さっきので全部該当したから」
「あっ……!!」
ああああああ――――っ!!!??
「さっきの無しで!!」
「却下」
「混乱してたの!!」
「ダメ。ポー。これ以上約束破ると、俺、本気で怒るよ?」
「……っ!?」
身体が、一回り縮まった気がした。
それくらい……イルミは今まで感じたことのないくらいの威圧感を発したのだ。
氷のような視線で、私を見つめてくる。
「それに、約束も破っただろ……? 絶対に無事で帰って来るって言ったのに、無事じゃなかったじゃないか。ヒソカに抱えられて戻ってきたポーの姿を見たとき、俺がどんな気持ちだったか、わかる?」
「ご……ごめん」
「誤っても無駄だよ。俺、許さないから」
「う……!」
イルミの手のひらが、やさしく頭を撫でていく。
指先が、櫛ですくように髪の間にさしこまれ、そのまま鷲掴みにされた。
遠慮のない力で、ギリギリと締め付けてくる。
「い……!!?いた……いたい……いたい、イルミ……っ!!」
「痛くしてるんだから当たり前だろ。これでも充分手加減してるんだよ?本気でやったらポーの頭がつぶれちゃうからね」
「……!?」
「本当は今すぐ殺したいくらい怒ってるんだよ?感情でひとを殺すなって教え込まれてるから抑えてるけどさ。あんな嵐なんかにポーを殺されるくらいなら、俺の手でポーの命を奪いたい」
「……」
ぬるん、と、唐突に、頭を締め付けていたイルミの手のひらが滑った。
「……“驚愕の泡(アンビリーバブル)”か。こんな使い方もできるんだ。やっかいだね、それ」
「……イルミ!」
ギュウ!!
と、首根っこにしがみつく。
涙が堰を切ったように溢れだした。
怒られて脅されて、怖くないはずはないのに、私は嬉しくて堪らなかったのだ。
イルミが、私を心配してこんなに怒ってくれたことが。
「イルミ……ごめん、ほんとにごめん……!!」
「だから、謝っても許さないってば」
「……私のこと、嫌いになった?」
「ううん」
「ならいいや……あのね、今ので私、ほんとにイルミのこと好きになったかも知れない……」
「は? じゃあなに、今までのは嘘だったの?」
「そ、そうじゃないけどさ。どっちかと言えば好き、じゃなくなった。完全に、好き」
「あっそ」
もういいや、と降参するようにため息をつき、抱きついたままの私に言った。
「で、キスは?」
「……」
で、と言われましても。
コチン、と固まってしまった私の唇を、
「ポー。キス」
「……う」
ううっ!
わ、わかったから、
……全く。
こくん、と息を飲み、小首を傾げたイルミの顔をまっすぐ見る。
「……目、閉じて」
「いいよ」
言うなり、漆黒の瞳は薄い瞼の向こうにパチンと閉ざされ、
こうしてみると、イルミは本当に人形めいた面立ちをしている。
「……一分、ね」
「うん」
抜け目のない彼のことだ。
きっと、
都合のよいことに、ベッドサイドに置かれた時計の文字盤が、
あれなら、キスをしながらでも時間が計れる。
ベッドの上で目を閉じ、几帳面にも正座をしたイルミの両肩へ、
「――っ」
唇を、近づける。
息を止めて、重ねたそれのあまりの柔らかさに心臓が飛び上がった。
柔らかい。
柔らかくて、温かい。
唇の先の、ほんの少しだけ触れた部分から、
ダメだ。
こんなままでいたら、おかしくなりそう……。
うっすらと目を開けて、時計を見た。
……まだ、十秒も経っていない。
どうしよう。
どうしたらいい。
キス、というよりも、唇同士をくっつけたままの状態で、
――一分。
時計の秒針は、
長い針がようやく一巡りして、その途端、
パチ、とイルミの目が開く。
まじまじと至近距離から見つめられ、
「いい、一分! 言われた通りにキスしたから!あ、あと2回!!」
汗だくになる私の前で、イルミはちょっと考えるように、
「今のが、キス?」
「……っ、ち、ちゃんと一分したでしょ?」
時計で計ってたもん、と食い下がる私に、
「五点」
「へ……?」
「今のがキスだとしたら、五点。百点満点中、五点」
眉ひとつ動かさかず、淡々と告げられる言葉に、
五点!?
「ごっ、ごごごご五点ってことはないでしょう!?
「酷いのはポーだろ。あんな、
「……っ!」
「ていうか、あんなの、ただ一分間唇を押し付けてただけだよね。
抑揚も、遠慮も、容赦も、感情の欠片すらも一切含まない言葉が、
自然と込み上げてくる涙を、見られたくなくて乱暴にこすった。
恋愛の経験は0じゃない。
でも、自分がキスが上手いだなんて、思ったことはない。
まして、相手はイルミだ。
名家ゾルディック家の長男であり、容姿端麗、
そういう相手は、求めなくても不自由なんてしていないだろう。
そんな彼に言い寄ってくる女の子達もまた、
そんな彼女たちに比べて、
いくらなんでも、そこまで酷く言わなくてもいいじゃないか。
「……そんなこと言ったって、し、仕方ないじゃない!
「罰ゲーム?」
くりっと、イルミの顔が傾く。
いきなりだった。
息のかかる距離にまで、その顔が近づいてきた。
「罰ゲームじゃない。ていうかさー、
「し、してるよ……!イルミに敬語を使ったのが一回でしょ?
「俺に?」
なに、と視線で促される。
その真っ黒な瞳の中にうつりこんだ私の顔が、
そうだ、私は、イルミに……。
「――心配を、かけたから」
「一晩中」
「……ごめん」
許さない、とまで言われたんだった。
いたたまれなくなって、
シーツの上にこぼれた涙が、散らばって、小さな染みになる。
顎にかけていた指をずらして、
「謝罪と感謝、だよね。それが分かっているのに、
なんにもね。
淡々とした言葉に、堪らなくなる。
「ごめん……なさい……」
「ダメ。ちゃんとキスで伝えて。
イルミの手のひらが、私の頭に伸びてくる。
じっと私を見つめたまま、彼はなにも言わず、ただ、ぽんぽん、
がんばれ、と言うように。
あのとき、二人で地震の震源地を探ったときと同じ仕草で。
「……わかった」
頷いて、涙をぬぐう。
正座をした彼に近づいて、ゆっくりと、さらに距離を詰めた。
「目、閉じる?」
「……うん」
「わかった」
パチン、と黒い瞳が伏せられた。
それを合図に、唇を重ねる。
今度は、私も目を閉じた。
薄い皮膚を通して感じるイルミの唇は、
男の人なのに意外と厚みがあって、ぷっくりと膨らんだ下唇は、
「……」
しばらくの間、
不思議そうに、イルミが目を開ける。
「ポー」
「……」
「どうして泣いてるの?」
「……ごめ、ん」
「……」
「やっぱり、ど……していいか、わか、なく、て」
「ポーは、他人とキスをしたことがないの?」
そうは思えないんだけど、と、イルミ。
「自分から、するのは……はじめて、かも」
「そうなんだ」
意外だね、と呟いて、
「じゃあ、一度だけ俺がお手本をみせようか?もちろん、
「……お願い」
言い終える前に、イルミは唇を寄せてきた。
ちゅっと、音を立てるように吸い付いてから、唇全体を使って、ふんわりと包み込む。
さっきまで、確かにイルミは怒っていたはずなのに。
そんなことをみじんも感じさせない、優しい口づけだった。
「――はい、一分」
「え……っ」
時計を振り向いて、あ然とする。
私がしたときは、何十分にも何時間にも感じたのに。
どうしてだろう。
解放された唇が、物足りなささえ感じてしまうのは。
「はい、次はポーの番」
「……上手く、出来ないかもしれないけど」
怒らないでねと見つめると、ほんの少しだけ、漆黒の双眸が細まった。
「テクニックなんかどうでもいい。ポーは俺に許して欲しいんでしょ? そのことだけを考えて、キスしてよ」
「うん……」
イルミに許して欲しい。
瞼を閉じて、イルミにそっと口づける。
整った、形の良い、薔薇の花弁のようなイルミの唇は、下唇と上唇をきゅっと結んだまま、微動だにしない。
イルミがしてくれたように、何度か、ノックをするみたいにバードキスを繰り返していると、ようやく、唇の合間から吐息が漏れた。
「イルミ……」
「ポー……唇、離したから一旦リセットね」
うん、と頷いて、またキスをする。
今度は、初めから薄く開かれた彼の唇の合間に、ちょっとだけ舌の先を差し込んでみた。
反応は全くない。
なんだか無視をされているようで悲しかったけれど、ぺろぺろと舌を出して、猫みたいにしばらくなめていたら、根負けしたようにイルミが息を吐いた。
ペロリ、と。
彼の熱い舌が、私の舌を舐めとっていく。
「イル、ミ……」
「一分」
「あ……」
いつの間にか、イルミは私から身を離して、まっすぐこちらを見据えていた。
「六十点」
「う……」
「ちょっとくすぐったかった。でも、さっきよりもずっと良くなったよ。やっぱり、ポーはやれば出来る子だね」
「ほ、ほんとに……? 上手くなってた?」
「うん。上手い下手じゃないけど。今のはちゃんとキスになってた」
いいこ、とまた頭を撫でられて、嬉しくなる。
でも、六十点かあ……。
まだまだがんばりましょうっていう点数だな。
これがテストの点だったら、ガックリと落ち込んでるところだ。
残るチャンスは、あと一回。
もし、上手くできたら……イルミは私のこと、許してくれるんだろうか。
「これで最後だね」
「……うん」
がんばって、と彼は言う。
「ポーはヒソカに、俺のことが好きだって言ってたよね」
「……やっぱり聞いてたんだ」
「うん。その気持は変わってない? ポーは今でも俺のことが好きなの」
「……」
こくん、と頷くと、
「じゃ、自信持っていいよ」
くりくり、髪を混ぜっかえされた。
「……じゃ、じゃあ、するね」
「うん。目は、閉じる?」
睫毛が触れそうな距離にまで、イルミの双眸が近づいていた。
真っ黒な瞳は、闇しか映さない。
でも、その中には今、私がいる。
私だけを映している。
そのことが、泣きたいくらいに幸せだった。
「……そのままで、いい」
「そう……」
白い首に腕をまわして、大きな背中にしがみついて、そうして、私はイルミに最後のキスを送った。
もう、何度となく重ねた唇は、触れ合わせれば溶けるほど熱い。
その熱が、嬉しかった。
イルミがここにいるのだと、確信できる温度。
イルミが私とキスをして、こんなにも熱くなってくれているのだと、自覚できる体温。
「んう……っ、イ……ルミ……ィ」
「ポー……可愛い」
嬉しかった。
舌を絡ませるほどに、イルミがそれに応えてくれる。
私は彼に、半ば無理やり好きだと言わされて。
二度目は自分から好きだと自白して。
でも、イルミはなにも言ってくれないから。
そうなんだ、としか、返してくれないくせに。
この軍艦島に来たとき、あの夕日の中で、あんなキスをくれたのはどうしてなんだろう。
彼が“なんとなく”、私とキスを交わした理由が知りたい。
答えがあるなら。
教えて欲しい――
「ポー……」
「んっ、は……はあ……はっ……」
ぐい、と肩をおされ、正気に戻った。
吸ったり、座れたりを繰り返していたせいで、舌が少し痺れている。
つうっと糸を引く銀糸が恥ずかしくて、みるみるうちに真っ赤になった。
なんだったんだろう、さっきのは。
あまりに夢中で、どれくらいの間キスをしていたのか、まるで覚えていない。
ぼうっと座り込んだ私をそのままに、イルミはベッドから立ち上がった。
「あっ、イルミ……」
「ん?」
「……今のキスは」
「九十五点。とりあえず、合格」
きゅっと双眸を細め、バスルームへと去っていくイルミの背中を見送った私は、こてん、とその場に倒れた。
「……なに、そのケアレスミス」
***
いろんな意味で嵐の吹き荒れた一夜は嘘のように過ぎ去った。
軍艦島で津波をのりきったメンバーは、無事に全員合格の通達を受け、飛来した飛行船にのりこんだ。
ギタラクルになったイルミとともに広場に行くと、壁際に座ってトランプを積みつつ、ニヤンニヤン笑っているあのひとが……とりあえず、隣に座ってみる。
「おはよ」
「おはよう」
「……おはようございます。ヒソカさん、昨日はありがとうございました。助けてもらっちゃって」
「無事でなにより。でも、礼はいらないよあれだって試験の一環だからね。ポーが無茶したおかげで、ボクの見せ場ができて合格できた。貸し借り無しさ」
「素直じゃないんだから。そんなのなくったって、助けてくれたくせに」
「まあね」
慣れた仕草でウインクひとつ。
それからふと真顔に戻る。
「キミの……もうひとつの能力のことだけどさあれって、攻撃系の念能力だよね」
「はい。“見えざる助手たち(インビシブルテンタクル)”って言います。やっぱり見られてましたか、まだ試作段階なんですけど」
「どうして?ちゃんと形になっていたじゃない」
「うーん……なんというか、ずっと出してるとすっごい疲れちゃうんですよね。オーラを触手に変える変化系、触手に見せる具現化系の能力。それを操る操作系……エネルギーを無駄に使ってる気がします。もっと効率のいい使い方があるはずなんですよ」
「ふぅん……じゃあ、なにかを選択してなにかを捨てなきゃいけないね。どれを選ぶ?」
「うーんー……それが、まだ決められなくて。とにかく、色んなところで使ってみようかなって思います。使ってるうちに、いらないかなあと思ったものを徐々になくしていった方がいいと思うし。ほら、あの巨大イカの退化した発光器みたいに。実際、私が生きていく環境がどんな環境なのか分からないと、いるものかいらないものかなんて、判別出来ませんからね」
「クックックック……ッ!!ポー、キミは賢いね。それに、やっぱりキミは面白い。キミも、キミの能力も」
ニヤリ、と笑った顔が、闘うときのヒソカの顔で……ちょっと、怖い。
「……!!」
「クックック……ッ!そんなに怯えるなよ今すぐにとは言わないその時がきたら、ボクと闘って欲しいなあ……逃げずに、ちゃんと向かってきて欲しいんだ」
「絶対嫌です!」
「クックックック……ッ!そう言うなよ」
「い、嫌だったら嫌です!!ギタラクル助けて……!!」
「カタカタカタカタ……(ぐーぐー)」
「狸寝入りするなあ!!」
***
そんなこんなで、やっとたどり着いた次の試験会場……ゼビル島。
「ついに来た……この試験が」
来た。
狩るものと狩られるもの。
私がこれまでナンバープレートを隠し通してきた最大にして唯一の理由。
神様、どうかお願いします。
ヒソカとイルミにだけは406番を引かせないで下さい。
ヒソカとイルミにだけは406番を引かせないで下さい!!!
大事なことなので二回言いました。
耳かっぽじって聞いとけコラ――!!
「ポー?なにブツブツ言ってるの?」
「ほら、ポーもクジ引いて来いよ」
「……は!あ、あ、そうか。うん、引いてくるっ!」
大丈夫だ、きっと大丈夫。
これだけ願えば大丈夫だろう。
いざっ!
「………これっ!!」
選んだカードは真っ白だった。
あれ?
あ、そうだ。これってシールになってるんだっけ?
あの、モヒカン頭の試験官さんが、シールを剥がすように皆に指示を出した。
出来ることなら、ゴンやキルアたちには当たりたくないなあ……。
現れたナンバーは――
301
ギャアアアアアアアアアアア……!!
「!!!!!!!???????」
くるっと、ひっくり返してみるけれど103にはならない……!!
「ならない!!」
「な、なにが?」
「大丈夫か、ポー。顔が真っ青だぞ」
「大丈夫…………………じゃない」
どうしよう。
どうしようどうしよう。
よ、よりにもよってイルミがターゲットってなにそれえ~~~~!!!
は!
しかもアレじゃん!
イルミをターゲットにしてた相手って、漫画やアニメの中じゃたしか、「ムカついたからすぐにヤッちゃった」って殺されてましたが……!?
「ダメだ……終わった。1点を3枚集めることから始めよう」
と。
思ったのだけど。
「……ゴン?」
「怖いのか、嬉しいのか、どっちなんだ?」
試験官さんから試験の概要を聞いたあと、船縁に腰かけたゴンに、キルアが尋ねた。
「両方、かな」
ぎゅっと、ゴンの小さな手の中に握りしめられたプレートを見る。
44番。
ヒソカのナンバーだ。
「これが、もし試合して勝たなきゃいけない試験だったら、俺に勝ち目なんかないけど、プレートを奪うだけだったら、なにか方法が見つかるかもしれない……!」
「……そっか。そうだよね」
そうだったよね。
ありがとう、ゴン。
私、また君とした約束を忘れてしまうところだった。
「ゴン、私もがんばるよ。最後まで、自信をもって頑張る!!」
「うん!」